山田正紀 闇の太守 目 次  第一話 出雲《いずも》人外宮《じんがいきゆう》  第二話 飛騨桃源郷《ひだとうげんきよう》  第三話 氷見痩面堂《ひみやせめんどう》  第四話 甲州《こうしゆう》陽炎城《かげろうじよう》  第一話 出雲《いずも》人外宮《じんがいきゆう》     一  陰暦の十月は神無月《かんなづき》だが、この地では神有月《かみありづき》と呼ばれている。  出雲《いずも》の国の話である。  日本中の神々が出雲の国に集《つど》い、男女の縁結びから、人世上の諸般のできごとまで、すべてこのときの神議《かむはか》りによって決めてしまうのだという。  神々がいなくなってしまうから、他国では神無月と呼び、神々が参集するから、この国では神有月と呼んでいる。  平仄《ひようそく》が合っている。  神々の旅舎も決まっていた。  出雲大社である。  現代では大社境内東西の十九社が旅舎とされているが、永禄《えいろく》の世のこのころでは、三十八社と呼ばれている神屋が旅舎に当てられていたらしい。  この三十八社なるものが、三十八柱の神を別々に祭ったものなのか、それとも(現在の十九社がそうであるように)一社殿に三十八神をあわせ祭ったものなのか、よくわからない。  出雲大社はさま変わりの激しい大社である。  創建のときには御本殿の高さは三十二丈(約百メートル)にも達し、屋根のうえの千木《ちぎ》が雲のなかに入っているといわれていた。その後何度か建て替えられたが、それでも優に十六丈はあったと伝えられていて、現代人たるわれわれは想像するだけでも、その壮大さに圧倒されてしまう。  この物語にさきだつこと十数年前、天文《てんぶん》十三年(一五四四)に国主尼子《あまこ》晴久は出雲大社に伯耆《ほうき》の地を寄進し、二年後には仮宮遷宮を行ない、さらに四年後には遷宮を執行している。  神国出雲では国守といえども、大社の勢力をあなどるわけにいかず、要するに懐柔政策なのだが、それにしてもわずか十数年でこの有様《ありさま》なのだから、出雲大社のさま変わりの激しさは推《お》して知るべしであろう。  変わらないものもある。  出雲の人々には、八百万《やおよろず》の神々にはなにか独特の親しみがあるらしく、どうかするとその息づかい、気配までも感じることができるらしい。  だから神有祭のおりには、神議《かむはか》りの妨《さまた》げにならぬよう、人々はみな謹慎斎戒《さいかい》し、庭も掃《は》かず、こそとも音をたてないようにして、家のなかにとじこもっている。  ましていまは毛利氏の山陰|攻《ぜ》めが激しさを増していて、なにかと世上がさわがしく、土地の人々の八百万《やおよろず》の神々にたいする気の遣《つか》いようも、並たいていのものではない。  永禄元年(一五五八)、尼子晴久は安芸《あき》・石見《いわみ》の国境近い忍原《おしはら》で、ようやく毛利軍を押しかえし、数年ぶりに石見の銀山を奪回することができたのだが、かろうじて息をついだにとどまり、とうてい出雲から戦雲を追いはらうにまではいたらない。 「こうも世の中がさわがしくては、神々も自儘《じまま》に神議りをお進めになれぬのではなかろうか」  人々は恐懼《きようく》し、いっそうなりをひそめ、神議りの妨げにならぬよう、一歩も外へ出ようとしない。  十月、といっても陰暦のことだから、もうまったくの冬で、毎年、風が激しく吹きわたり、波が高くなる。  この日は、それに雪が加わった。  その激しさはもはや吹雪といってよく、出雲の国は一面に白く化粧し、神有祭ということもあって、静寂《しじま》のなかにしんと凍りついてしまっている。  夜になり、ようやく雪はやんだが、月の光のなかに冴々《さえざえ》と浮かびあがった出雲の国は、氷のように蒼《あお》く結晶し、ねずみ一匹|這《は》い出ようとはしない。  いや、そうではない。  ねずみこそ這いだしていないが、この寒さのなかを聖にして俗、僧にして僧にあらず、高野聖《こうやひじり》という生きものが何匹か、走り抜けていく。  出雲を貫通し、宍道《しんじ》湖にいたる斐伊《ひい》川という大河がある。  その高野聖《こうやひじり》たちは、斐伊川に沿《そ》うようにし、出雲大社からさほど離れていない山道を、ひたすら走りつづけているのだ。  白衣《びやくえ》が、月の光のなかにまばゆいばかりにきらめいている。  速い。  速いばかりではなく、足の運びになにか工夫でもあるのか、雪を蹴たてることもなく、また息を荒くしている様子もない。  高野聖たちがふいに足をとめた。  前方、月の光のなかに、墨染めの衣をつけた僧侶が、ゆっくりと身を起こし、高野聖たちに微笑を向けた。  まだ若く、美僧といってもよい顔だちをしている。 「おお、瑶甫《ようほ》どの」  高野聖のひとりが声をあげた。 「待ちかねましたぞ」  僧は静かにそういうと、身をゆっくりと脇に退《しりぞ》けた。  これまで高野聖たちが駆《か》け抜けてきた山道は、もとより人の往き来する径《みち》などではなく、細々とつらなるけもの道にすぎないのだが、それすらここで切れている。  前方にたちふさがるようにして、雪に覆《おお》われた地面が盛りあがり、丘陵となって、夜空に白く、なだらかな稜線を描《えが》き、それがはるか下方の、樹々のあいだに光っている斐伊川まで流れ落ちていた。  そして高野聖たちの眼のまえに、腰をかがめて、ようやく入ることができるぐらいの穴が、なかば雪に埋もれるようになりながら、それでも黒々とくちをひらいていた。  それが自然にできた洞穴でないのは、その穴がほぼ矩形《くけい》に形を整えられていることからも明らかだった。 「これが石上宮《いそかみのみや》でござるか」  高野聖のひとりが畏敬《いけい》に満ちた声でいった。 「さよう」  と僧はうなずいた。「石上宮に心得もなく足をふみ入る者はたちどころに落命する、里の者たちはそう信じて疑わぬらしい」 「心得のなき者は」  高野聖たちのあいだに、なにか嘲《あざけ》るようなどよめきが湧き起こった。 「要《い》らざる心配はなさいますな」  なかのひとりが肩をそびやかすようにしながら、そう請《う》け合った。 「われら伊賀者には城壁も、濠《ほり》もあってなきがごとし。いかに金城鉄壁の陣をかためようとも、わが庭も同じでござるよ……ましてやこのようにくちをあけている石上宮、伊賀者が忍び入るのになんの心得がいりましょうや」 「なるほど、これはまさしく要らざる心配ごとでございましたな。伊賀忍びのうちでも選《よ》りすぐりのご貴殿がた、万にひとつもしくじりはございますまい」  僧は微笑している。 「伊賀忍者のほまれにかけても、お望みのものは首尾よう手に入れてさしあげる。まずは半刻《はんとき》とはかかりますまい。お待ちあれ」  高野聖は、いや、高野聖に化けた伊賀忍びは、昂然《こうぜん》と顔をあげ、そう言い放つと、 「罷《まか》る」  一揖《いちゆう》し、身をひるがえした。  負っていた笈《おい》をおろし、白衣を脱ぎ、すばやく忍び装束に身をかためると、そのまま伊賀忍者たちは穴のなかに飛び込んでいった。 「ふ、ふ」  僧がみじかく笑った。  不用心に洩らしたように聞こえるさきほどの言葉は、じつは伊賀忍びたちを猛《たけ》らせ、逸《はや》らせるためのものであったらしく、この若い僧、なかなかに人がわるい。  しばらく伊賀忍びたちが消えていった穴を見つめていたが、やがて林のなかに入っていき、折れ枝を拾いはじめた。  また穴のまえに戻《もど》ってきて、ほどのいい岩を見つけると、そのうえに腰をおろし、拾ってきた折れ枝をつみあげる。  焚火《たきび》をつくろうとしているのだが、なにぶん雪のために枝が湿っていて、思うように火がつかない。  これは難儀な、僧が吐き捨てるようにそうつぶやいたとき、 「わしが焚火を馳走《ちそう》しよう」  背後から声がかかった。  僧はさしておどろいたふうもなく、ゆっくりと首をめぐらした。  まだ若い武士が、そこに立っている。  めだたぬこしらえの大小を差し、褐《かち》色の小袖《こそで》にくくりばかま、毛の長いけものの皮を袖無羽織《そでなしばおり》のようにして着、手には種子島《たねがしま》鉄砲を持っていた。  眼が澄んで、いかにも聡明《そうめい》そうな顔だちをしているが、前びたいがやや禿《はげ》あがっているのが、難といえばいえないこともない。 「ほう、焚火を喜捨していただけるので」  僧はまた微笑を浮かべた。 「さよう」  武士はゆっくりと足を運び、つみあげた折れ枝のまえに、腰を沈めた。 「いかにほとけの道をきわめたご坊といえども、この寒空に火なしでは、あまりに痛々しい」  腰の革袋のくちをゆるめ、黒火薬を一つまみ出すと、それを折れ枝のうえにまんべんなくふりかける。  そのうえで火打石を打つと、今度は難なく火が燃えあがった。 「おう、これはなによりの馳走じゃ」  よろこびの声をあげ、両手を火のうえにかざす僧に、 「遠目にではあったが、京の東福寺で一度だけ姿をおみかけしたことがござった。ご坊は竺雲恵心《じくうんえしん》どのとなにやら熱心に話しこんでおられた」  武士が言った。 「東福寺二百十三世住持の竺雲恵心はわが師でござれば」 「ほう、さようなことを申されてよろしいのかな」 「なにが」 「竺雲恵心どのは出雲の出自でありながら、尼子氏とは不倶戴天《ふぐたいてん》の敵である毛利氏とはやくから結ばれた御仁《ごじん》ではござらぬか。毛利氏一族の恵心どのへの帰依心《きえしん》にはなみなみならぬものがあると聞きもうした……その法弟であるご坊は、尼子氏にとってはいわば毛利の回し者もおなじではござらぬか」 「なにを埒《らち》もないことを」  僧は笑った。 「坊主とはほとけの道に生きる、いわば人外の生きものでござれば、毛利も尼子もちがいはござらぬ……ご貴殿は毛利氏の帰依あついと申されたが、わが師恵心は出雲安国寺の住持もつとめ、尼子氏にも逆心などつゆほどもお持ちではない。ましてや拙僧が毛利氏の回し者などと、いささかひが目がすぎるのではござらぬか」 「これはとんと法話を聞かされているようだわい」  武士は膝を打ち、笑ったが、すぐに真顔に戻《もど》った。 「ご坊、人をみて法を説け、という言葉もある、そのような遁辞《とんじ》はわしには通用せぬものと思われよ」 「ほう、遁辞と仰せられるか」 「わしはな、ご坊が石上宮《いそかみのみや》に伊賀忍びを放つのを、この眼で見ているのだ」 「石上宮に?」 「よもや知らぬとは申されますまい」  武士は穴に向かって顎《あご》をしゃくった。 「石上宮とはすなわち古代出雲王国の陵墓がことよ」 「はて、これは迷惑な、途方もないいいがかりを仰せられるものよ、ほとけにつかえる身が、なにゆえあって、国王の墓所に伊賀忍びを放ったと申されるのか」 「玄室《げんしつ》に収められているという出雲の秘宝を奪わんがため」  武士は落ちついた声で言った。 「そうではござらぬか、安芸安国寺の一任斎どの。それとも瑶甫《ようほ》の名でお呼びすべきであろうかな」 「それは号でござるよ」  僧はゆっくりと首をふり、 「よろしければ恵瓊《えけい》と呼んでいただきたい。拙僧は安国寺の恵瓊」  折れ枝がはじけたらしく、一瞬、焚火の火が大きく揺らいだ。  武士と恵瓊はしばらく黙していたが、 「毛利|元就《もとなり》公は大器量人であらせられる」  やがて恵瓊がポソリと言い、 「いずれは天下《てんが》をわがものにおさめんと、京にもしかるべく網を打ち、京都手入れにおこたりはござらぬ。わが師、京都東福寺住持の恵心はさしずめその足懸かりともいうべきでござろうか……正親町《おおぎまち》天皇が践祚《せんそ》をなされたのは一年まえ、それがおいたわしや、費《つい》えがないばかりに、いまだに御即位式をお挙げになれずじまい、見かねた毛利氏が二千貫ものおかねを献じたてまつったのであるが……御即位式を挙げるからには、おかねばかりではなく、なにか花になるものも添《そ》えてさしあげたい」 「その花が、石上宮の秘宝でござるか」  武士は冷笑を浮かべている。 「さよう」  恵瓊はうなずき、 「拙僧はこの一事をわが師恵心よりたくされた。いうなれば命懸け。邪魔だてしようとするものは、何人《なんぴと》といえども、断乎《だんこ》としてこれをしりぞける所存でござる」  恵瓊は枝を拾い、しきりにそれで焚火を突ついている。  いざという場合には、すかさずその枝で火を拾い、相手の顔になりと叩きつけるつもりでいるらしい。 「そのように物騒《ぶつそう》なことをお考えあるな」  そう言うと、ふいに武士は身をのけぞらせるようにして哄笑した。 「わしは種子島にはいささか覚えがあるが、刀術のほうはわがことながら不憫《ふびん》なほど不得手でござる。そのように物騒なことをお考えあらずとも、このほうに邪魔だてする気は毛頭《もうとう》ござらぬ。ただ……」 「ただ?」 「むだというものでござろうよ」  真顔になり、武士はいった。 「伊賀忍びがいかに勇猛果敢で、偸盗《ちゆうとう》の術にすぐれていようと、しょせんそれは人界でのこと、石上宮《いそかみのみや》にもおなじ道理が通用するとは思われぬ」 「石上宮は人の世のものではないと仰せられるか」  恵瓊《えけい》はわずかに眉をひそめた。 「出雲という国がそもそも人の世のものではない。古《いにしえ》の書によれば出雲は顕国《うつしくに》にあらず、黄泉国《よみのくに》でござるよ。天地|開闢《かいびやく》の神いざなぎさえも女房いざなみをつれだしかねて、命からがら逃げだした黄泉国、いささか伊賀忍びの手には余るのではござらぬか」 「伊賀忍びは偸盗を商《あきな》うのが稼業《よすぎ》、あの者たちの手に余るようであれば、石上宮にはだれ一人として忍び入ることができますまい」 「ご坊、闇の太守をご存知か」 「やみの、たいしゅ……上総《かずさ》、常陸《ひたち》、上野《こうずけ》を親王の任国とし、その三国の守《かみ》を称して太守としたというが」 「それは顕国《うつしくに》のこと、この出雲にも太守はおわす。出雲の太守は尼子ではなく、ましてや毛利でもない。出雲黄泉国をつかさどるのが闇の太守であらせられる」  武士の声にかすかに畏怖の響きがあった。 「石上宮にお入りになれるのは、その闇の太守さまをおいてほかにない」 「闇の太守……」  恵瓊は口のなかでつぶやき、武士の顔を凝視した。  武士は平然として、恵瓊の顔を見返している。  その若いのに禿《はげ》あがった額《ひたい》を見、この男の頭はなにやらきんかんに似ているようではないか、恵瓊はそう思い、はて、これは何者であるか、とようやくその疑問を覚えた。  若い武士の流れるような口舌《くぜつ》にまどわされ、ついうかうかとその話を聞いてしまったが、闇の太守、などという怪しげな名前を持ちだしてくるようでは、これはいかにも胡散《うさん》くさい。  これはあるいは甲斐《かい》の武田か、越後の上杉が放ったらっぱではあるまいか。  そう疑わざるをえない。 「いや、忠言いたみいる」  恵瓊は軽く頭を下げ、 「拙僧の手下《てか》にも名人上手をうたわれた伊賀忍びが何人かいる。闇の太守さまとやらをお頼みするより、まずはその者たちの帰りを待ち、そのうえで思案をかさねるのが常道と心得る」 「その伊賀忍びたちだが、ご坊」  と、武士は沈痛な声で言った。 「あまりに帰りが遅すぎるのではござらぬか。もう疾《と》うに半刻は過ぎておろうに」 「…………」  恵瓊の顔色が変わった。  やおら身を起こし、片膝を立てた姿勢のまま、ジッと耳を澄ました。  月は闇をはらって、皓々《こうこう》と冴えわたり、出雲の山河をあまねく浮かびあがらせている。  そのしんと凍付《いてつ》いた風景のなかに、ただ斐伊川のせせらぎの音だけが聞こえている。  遠くで、山犬が吠えた。 「遅い……」  恵瓊がそうつぶやくのと、異変が起こるのとが、ほとんど同時だった。  ふいに悲鳴が寒気をつんざくようにして聞こえ、それが穴にいんいんと反響《こだま》をくりかえした。  いまさっき吠えた山犬の声に似て、到底《とうてい》人間の喉《のど》から出たとは思われぬほどの、凄《すさま》じいかぎりの絶叫だった。 「おう」  恵瓊《えけい》も、武士も棒立ちになっている。  よろめきながら、穴から姿を現わしたその男は、もう人のかたちをとどめてはいなかった。顔も、体も無残に焼けただれ、衣は消し炭のようにくすぶり、ちろちろと青い鬼火を燃やしている。 「瑶甫《ようほ》どの」  その男が口をひらくと、炭化した皮膚がボロボロとはがれおち、歯がどくろのようにむきだしになった。 「みな死にもうした……みな死に……」  男は膝を折り、前のめりにゆっくりと地に沈んでいった。  恵瓊は呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる。  その落ちくぼんだ眼窩《がんか》、削《そ》げた頬に、あかあかと焚火の炎が映《は》え、影が舞い、恵瓊の顔もまた一個のどくろのように見えた。  やがて武士はゆっくりと頭を下げると、サクサクと凍った雪をふみながら、その場を立ち去っていこうとした。 「名を明かしてはいただけぬか」  恵瓊の声が追ってきた。  さすがに名僧竺雲恵心の法弟だけあって、恵瓊の声は低く沈んではいたが、もう動揺の余韻は残していない。 「一介の素牢人、明かすべき名とてござらぬが」  武士はふりかえりもせずに応じた。 「美濃明智の住人にて、明智十兵衛光秀」  そのままけもの道をふみわけて、森のなかに入っていく。  しばらく歩くと、ふいに頭上になにか羽ばたく音が聞こえ、雪をあび、白衣をまとったように白く染まっているふくろうが、眼のまえの枝にフワリと降りたった。 「幻阿弥《げんあみ》、見たか」  光秀は足をとめると、そのふくろうに声をかけた。 「やはり闇の太守の助力がなくば、石上宮に忍び入るのはかなわぬようじゃ。舞え、幻阿弥」 「心得申し候」  そう言うなり、ふくろうが飛びたった。     二  ふくろうは石礫《いしつぶて》のように闇を裂き、一瞬、月の光をあびて、銀色にかがやくと、そのまま斐伊《ひい》川の河原に舞い降りていった。  ふくろうが降りていくと、そのあおりをくい、河原を敷きつめていた雪が浮きあがり、硝子《ギヤマン》が砕け散るように、まばゆい月の光がきらめいた。  その月の光のなかにゆっくりと人影が身を起こすのが見えた。 「かように候う者は、明智十兵衛光秀殿に仕《つか》え申す忍者にて候」  濃いねずみ色の忍び装束に身をかためた男が、そこに立っていた。  痩せて、背のたかい、渋皮のように黒い肌をした男だった。瞼《まぶた》が重くたれさがり、眼は一筋のにぶい光をたたえて、細く切れあがり、奇妙にとらえどころのない顔だちをしている。少年のように若く見えることもあり、そうかと思うと、古希を迎えた翁《おきな》のように見えることもあった。  この男が、光秀の呼んだ幻阿弥《げんあみ》にちがいなかった。  幻阿弥はすいと銀扇をひろいあげると、そのまま謡《うた》い、かつ舞いはじめた。   花をも憂《う》しと捨つる身の、花をも憂しと捨つる身の、月にも雲は厭《いと》わじ——  幻阿弥のただでさえ表情にとぼしい顔が、さらにもうろうとしたものになり、その謡もびょうびょうと神韻《しんいん》を帯びるようになった。  一種の自己催眠といえるかもしれない。  御《お》神楽《かぐら》というものがある。  本来、これは楽を奏して一心に祈念《きねん》を凝《こ》らすことであり、神におがむためのものであっても、舞うためのものではない。祈念を凝らすあまり、ついにジッとしていられなくなり、舞いはじめることがあっても、それは結果にすぎず、目的ではない。  忍者という生きものに悟道というものがあるなら、それは万物に融《と》けこみ、風にさすらい、虫のすだくをわが鼓動とし、ついには石にも、樹にもなりはてるのを理想とするにちがいない。  幻阿弥が舞い、謡うのは、そのためなのである。  あるいはこれは音楽にあわせ、激しく体を動かし、抑圧されていた生体エネルギーを解き放つという、現代のダイナミック・メディテーションに通じるものがあるのかもしれない。  世阿弥の『花鏡』にいわく、 「能の出で来る当座に、見《けん》・聞《もん》・心《しん》の三あり」  その三能のなかでも最も優れたものが〈心より出で来る能〉であり、 「さびさびとしたる中《うち》に、何《なに》とやらん感心のある所」  これを〈冷えたる曲〉とも、また〈無心の能〉とも記している。  この〈無心の能〉のきわまるところ、能は至高の芸に達し、それが忍者の術にも通じるものがあるのにちがいない。   蘆《あし》の葉分《はわけ》の風の音、蘆の葉分の風の音、聞かじとすれど憂き事の、捨つる身までも有馬山《ありまやま》、隠れかねたる世の中の、憂きに心は徒夢《あだゆめ》の——  謡い、舞いつづける幻阿弥のうえに、月の光が滝つ瀬の岩にはじけるしずくのように降りそそぎ、その体をおぼろに浮かびあがらせていた。  謡の声にあわせるようにして、斐伊川のせせらぎの音がしだいにたかくなっていき、それがやがて人の声に結晶した。 「伊賀者のようであるが、うぬはたつきの道をあやまったのではないか。忍者よりも能役者になるほうが、よほど似つかわしい」  声の主は、謡い、舞う幻阿弥から、二間とは離れていない河原の苔《こけ》石のうえに腰をおろしている。  かつては赤かったのではないかと思われる色褪《いろあ》せた袖無羽織を着、革ばかまをはき、重い陣太刀を帯に差していた。  石のうえに腰をおろしていても、ひどく背が低いのがわかる。そのぶん体に幅《はば》がある。碁盤のような体のうえに、これもまた並はずれて大きく、幅のある顔が乗っている。年のころは三十がらみ、扁平な顔だちに、間隔のひらいた眼が、鈍《にぶ》い光を放っている。険相といっていい。 「妙なわざを使うではないか」  と、この蟹ざむらいは小声でブツブツと泡をふくように言った。 「うぬは狐狸《こり》のたぐいではないのか」  この男、このころ諸国でごくまれに見かけるようになった兵法者《ひようほうしや》という人種らしいが、気配を絶ち、斐伊川のせせらぎに身を融《と》けこませていたそのわざこそ、妙であり、狐狸のたぐいというべきだった。 「おれの名は両刃蟹之助《もろはかにのすけ》……常陸《ひたち》鹿島の神人《じにん》で鹿島流刀術にいささか覚えがある」  このころ兵法者が奇名を名のるのは、土子泥之助《ひじこどろのすけ》、岩間小熊などがそうであるように、要するにわが名を売らんがための常套手段で、べつにおどろくには当たらない。 「なあ、伊賀者よ、おれは忍びとは何度か立ち合うたが、うぬのように曲舞《くせまい》をわざに使う術者には、いまだかつてお目にかかったことがない。うぬはおもしろい。なあ、おれと立ち合わぬか。斬り捨てて、わが刀術の工夫にしたい」  見上げた求道心というべきだが、勝手といえば、あまりに勝手、この言葉にはだれしもおどろかざるをえないだろう。  しかし幻阿弥はおどろかない。  いや、蟹之助なる兵法者が、自分に試合を挑《いど》んでいるのさえも、はっきりとわかっているのかどうか、あいかわらず謡を唱し、月光のなかでゆるゆると舞っている。   袖を片敷《かたし》く草枕、袖を片敷く草枕、夢路もさぞな入る月の、あと見えぬ磯山の、夜の花に旅寝して、心もともに更けゆくや——  蟹之助が歩を進めた。  すると幻阿弥がしりぞく。  蟹之助が一歩進めば、幻阿弥は一歩しりぞき、二歩進めば、二歩しりぞく。  決して幻阿弥は、蟹之助を避《さ》けようとしているのではないらしい。風に吹かれる羽毛のように、殺気を感じるなり、自然に体が動いてしまうようなのだ。まさしく〈無心の能〉、至高の芸というべきだが、あまりに幻阿弥の動きが飄然《ひようぜん》としていて、その境地に感嘆するよりも、なんとはなしに可笑《おか》しみを感じてしまう。 「おもしろし」  蟹之助がそう声を発したのも、そのためであろうが、だからといって喜捨がわりに試合をやめるほどの可愛げは、この兵法者にはないようであった。 「その境地に達するまでの修行、いかばかりに血のにじむほどであったか。それを一撃のもとに打ち砕くは不憫《ふびん》であるが、このほうにも事情というものがある……なあ、伊賀者よ、おれはある男を斬るためにこの出雲の国まで足を運んできたのだ。いまここでうぬに情けをかければ、わが覚悟が萎《な》えてしまう。この世には血祭りという言葉もないではない。気の毒ではあるが、冥加《みようが》がつきたと思うてもらうほかはない」  蟹之助ははなしを終えると、悲しげに顔を伏せ、ホッと溜息《ためいき》をついた。  そして、やおら真っ向から躍りこむと、凄《すさま》じいばかりの抜き撃ちを放った。  重く唸《うな》りをあげ、風を捲《ま》いて襲いかかった一撃は、しかしむなしく宙を薙《な》ぎ、月の光にきらりと光った。  地を蹴り、雪を散らして、魚が釣りあげられていくように、幻阿弥の体はふわりと跳躍し、降りそそぐ月あかりのしずくのなかで、いったん宙吊りになった。  そのときたしかに蟹之助は大鼓《おおつづみ》、小鼓《こつづみ》を激しく打ち鳴らすかけりの囃子《はやし》の音を耳にしたように感じた。  昂揚し、ふいの狂気にみまわれた舞手《まいて》は、われとわが妄執にとり憑《つ》かれ、走り舞い、そのままこの世ならざる修羅《しゆら》の世界に走り去っていってしまう。  翔《かけ》り、あるいは馳《かけ》りの字をあて、呪師走《ずしばし》りという言葉を用いることもある。  かけりを囃《はや》す笛と大小の鼓の音《ね》が聴こえたように感じられたのは、いかに幻阿弥の舞い、謡が神技の域にまで達していたか、その証左ともいえる。  むろん幻阿弥の姿は消え失せていた。 「狐狸めが」  さほど気落ちした様子もなく、蟹之助はそう口のなかでつぶやくと、ゆっくりと刀を腰に収めた。  幻阿弥が姿を消すのと時を同じくして、地霊、あるいは樹霊のそれに似て、あるかなしかにかすかではあるが、それでいて纏《まつわ》りつくかのようにも感じられていたべつの気配もまた、フッと斐伊川の河原から消え失せた。  蟹之助はしばらく月の光のなかに黙然と立ちつくしていたが、 「馬酔木《あしび》はおらぬのか」  一声そう呼んだ。  それに応じる声はなく、ただ斐伊川のせせらぎと、それにときおり撓《たわ》んだ枝から雪の落ちる、鈍い音が聞こえてくるだけであった。 「出雲の神有月《かみありづき》に神々がおわすかどうかはわからぬが」  蟹之助は月をあおいだ。 「まさしく百鬼夜行、悪鬼|羅刹《らせつ》のたぐいにはこと欠かぬようだ」  この物語の永禄年間よりさらにさかのぼること七十年あまり——  文明《ぶんめい》十八年(一四八六)元旦の寅の上刻。 「あら目出度や五十六億七千万歳、弥勒《みろく》の出世、三会《さんね》の暁《あかつき》」  そう太鼓や鼓を打ち鳴らし、千秋万歳《せんずまんざい》を舞いながら、鉢屋賀麻《はちやかま》党の一党が出雲の富田《とだ》城ににぎやかに乗り込んでいった。  鉢屋衆というのは舞いをよくし、音曲《おんぎよく》にたくみな芸人集団で、毎年元旦には富田城の城内で鳥追いをおこなうしきたりになっていた。  このころは尼子《あまこ》氏の棟梁《とうりよう》尼|経久《つねひさ》は出雲守護代の地位を追われ、その敗残の身を中国山地の草ぶかい山のなかにおくっている。  富田城の城将は塩冶《えんや》掃部助《かもんのすけ》なるもので、鉢屋衆が「鳥追いの御祝い」を口々にとなえ、打ち手拍子でさわぎたてるのを、「目出度けれ」と相好《そうごう》をくずし、よろこんだ。  これがすべて出雲を奪いかえそうとする尼子経久の策略であった。  このとき富田城の裏手に忍び寄った尼子経久を棟梁とする五十人あまりの兵は、いたるところに火をかけ、「焼亡よ火事よ」と叫び、城内に攻め入った。  これに応じ、鉢屋衆は烏帽子《えぼし》、素袍《すおう》を脱ぎすて、甲冑《かつちゆう》姿になり、太刀長刀《なぎなた》をふるい、さんざんに暴れまわった。  たちまちのうちに塩冶掃部助の兵は総くずれになり、尼子経久はふたたび出雲に支配権を得た。  このとき尼子経久が富田河畔にさらした首は四百とも七百余人ともいわれている。  このときの功により、鉢屋衆は月山に小さな山城を与えられている。  すなわち鉢屋城である。  この由来ばなしを聞いたとき、 「本当かね」  と幻阿弥《げんあみ》は疑ったものだ。  鉢屋衆は芸人集団ではあるが、いわばらっぱの集団でもある。  放下《ほうか》師、猿楽《さるがく》師、乞胸《ごうむね》(こじき)、薦僧《こもそう》、傀儡《くぐつ》回し、歩きごぜ、らっぱはこれら諸国をさすらう芸人たちにしばしば化けることがあったが、これはかならずしも変装とはいえず、そもそも旅芸人と忍者とは共通する部分が多く、その違いはさだかではない。  幻阿弥にしてからが、伊賀の曲舞《くせまい》衆という芸能集団の出自で、その意味では鉢屋衆となんら変わるところがない。  しかるに曲舞衆はいかに働いても、ついにひと以下の忍者の身分にとどめおかれ、鉢屋衆はこうして城をさずかっている。  そのちがいははなはだ大きく、幻阿弥ならずとも、 「本当かね」  と疑い、なにがなし悲哀の念を覚えざるをえない。  もっともらっぱの小城だけあって、鉢屋城には土取場《つちとりば》から、高殿《たかどの》たたらと呼ばれる製鉄炉までそなわっていて、一般的な意味での山城とはかなり概念を異にしている。  城というより砦《とりで》であり、砦というよりも砂鉄をとるための鉱山であった。  もっとも怒濤《どとう》のように毛利勢が迫っている最中《さなか》のことであるから、砦は砦なりに、鉱山は鉱山なりに、警戒はきびしい。  そのきびしい護《まも》りに、一点、アリの穴を穿《うが》つようにして、幻阿弥は鉢屋城に忍びこんでいる。  それというのも、明智十兵衛光秀のいう闇の太守なるおひとが、この鉢屋城に押しこめられているといううわさがあり、幻阿弥はその探索《たんさく》を命じられたからだった。  鉢屋城は月山の中腹に深く切れこんだ谷の途中にある。  尾根には柵をめぐらし、崖にはふとい黒木を組みあげて矢倉《やぐら》を設けてあり、城主のためには楼閣も築かれていた。  要害の地といってよく、さきにもいったように護りはきびしく、警護の者は城内をまわり、宿直《とのい》の者も適所に配されている。  そのなかに忍びこむのも幻阿弥ならではのわざであり、〈無心の能〉の賜物《たまもの》といってもいいかもしれない。  幻阿弥は楼閣の屋根にのぼり、しばらく下の気配をうかがってから、城の壁をやもりのように這い降りていった。  下界の闇のなかには警護の者の龕灯《がんどう》の明かりが移動し、高殿たたらの溶鉱炉の火が赤く浮かびあがっていた。  幻阿弥は雨戸を外して、城中に忍び入り、桟《さん》をつたって、天井を移動していき、やがて天井裏に身を滑りこませた。  天井裏の梁《はり》をつたって、下の気配をうかがい、なにもないのをたしかめると、また外へ出て、城壁を下の階まで降りていき、天井裏に忍び入る、そうした探索が小半刻あまりもつづいた。  ほう。  そして、幻阿弥は胸中おどろきの声を発した。  これまで数えきれぬほど城へ忍びこむのをくりかえし、ひとのすることは大同小異、たいがいのことにはもうおどろかなくなっているらっぱ幻阿弥も、さすがにその光景には眼を剥《む》いた。  外から見たのではわからないが、楼閣には地下牢がつくられてあった。  地下牢といっても、板敷で、かなりの広さがある。  格子の外に吊り行灯《あんどん》があり、暗い光をなげかけているのも、牢らしくはない。  いや、なにより牢らしくないのは、その暗い光のなかにはだかの女の姿が浮かびあがっていることだった。  それも一人や二人ではない。  天井裏の梁《はり》に両足の甲をかけ、蝙蝠《こうもり》のようにぶらさがった幻阿弥が、はめ板の隙間《すきま》から数えたかぎりでは七人、はだかの女が牢のなかにはいた。  これはおんな牢か、幻阿弥はそう思ったが、それにしてもここ凍《いて》つく寒気のなか、はだかでいるのが、いかにも腑に落ちない……  ほほう。  幻阿弥は胸のなかでおどろきの声を洩らすのをくりかえしている。  板敷には蓆《むしろ》がただ一枚、そのうえに女たちは折りかさなるようにしてよこたわり、白い泥のようにうねり、もだえ、淫声を洩らしている。  吊り行灯《あんどん》のほのかな暈光《うんこう》のなかに、まろやかな乳房がふるえ、豊満な腰が上下し、扇をひらくように、ゆっくりと足がひらいていくのが浮かびあがっていた。  女たちは恍惚《こうこつ》としてあえぎ、長い黒髪が板敷をはい、陰毛がみどりの藻のようにぬれいろに光っている。  七人の女たちは美しく、大きないそぎんちゃくが水にゆれ、触手を波打たせているように、板敷のうえに揺蕩《たゆた》い、快感のゆるやかなうねりのなかに身をゆだねていた。  女たちのあえかなるすすり泣き、切ない溜息、魂をとばすようなみだら声、そして熱いささやきが愛《いと》しい男の名を唱えるのだ。 「塔九郎《とうくろう》さま、塔九郎さま……」  男はただの一人、しかも美しく、淫《みだら》ないそぎんちゃくの中心にいながら、衣を脱《ぬ》いでさえいない。  まだようやく二十歳をこえたばかりの若年に思われた。  たくましく、よく陽に灼《や》けていたが、眼がきれいに澄んでいて、顔だちに冴えた凜々《りり》しさのようなものが感じられる。  あい染めの粗末な小袖に、同色のくくりばかまを穿《は》き、どこをどうするわけでもないのだが、わずかに身を動かすだけで、女たちはあられもなくとりみだし、板敷のうえにはだかをうねらせるのだ。  なんと、これは出雲|巫女《みこ》たちではないか、忙《せわ》しいことだが、幻阿弥がまたもそうおどろいたのは、ゆえのないことではない。  出雲巫女とは諸国をさすらい、出雲大社の神符《しんぷ》を売り、神楽舞を見せ、ときには色をひさぐ歩き巫女のことである。  いうならば情事《いろごと》の専門家ともいえる彼女たちを、こうまで息も絶えだえに昇天させることができようとは、この若者はただ者ではありえなかった。 「塔九郎さま……」  女たちの一人が満ちてきて、あふれ出ようとする快楽《けらく》に耐えかねたのか、若者のうえにのしかかっていき、押したおすようにして、そのうえでなまめかしく腰をくねらせた。  吊り行灯の鈍い光のなかに、一瞬、若者の両足をむすんでいる鎖が浮かびあがるのが見え、はがねが板敷を打つ音が聞こえた。  どうやら囚《とら》われびとはこの塔九郎という若者のようだ。幻阿弥はそう思い、もしかしたらこれが闇の太守ではないだろうか、とふいにそのことに思いあたって、いつになく狼狽《ろうばい》をおぼえた。  闇の太守、という名前から、生きながらこけむして、いつしか人外の変化《へんげ》になりはててしまったような老人を連想していたのだが、これではまるで子供ではないか……  しかしその子供がふいに顔をあげ、天井裏の自分のほうを見て、ニコリと笑ったときには、さしもの伊賀の幻阿弥もあやうく梁《はり》から落ちそうになった。     三  ようやく夜が明けはじめ、暁闇《ぎようあん》のほの暗いなかに積もった雪が白々と浮かびあがってきた。  竹のさきから雪が落ち、真竹の藪《やぶ》のなかにかすかな溜息のような音が聴こえた。 「夢かよう、道さえ絶えぬ、くれたけの、出雲の里の、雪の下おれ」  藪のなかに、低く、呪文を唱えているような声が聞こえ、ふいになにか白いものがザアッとささの葉を鳴らし、藪のなかに跳躍するのが見えた。  その白いものはうずくまり、両手両足をそろえるようにして、真竹にちょんと掴《つか》まって、そのしなうのを利用して、ふたたび大きく跳躍した。  そして雪のうえに転がりざま、すばやく身をたてなおし、叫んだ。 「だれだ」  意外にも若い女の声だった。  薄絹の白いマントのようなものを頭からかぶっていて、口と鼻も同じもので覆《おお》い、額《ひたい》には葛《くず》かずらを模した金色の輪を飾っている。  この時代、日本にもマントは入ってきていて、上杉謙信、織田信長などが愛用していたが、それらは南蛮系のビロード生地をつかったもので、この女が着ているような波斯《ペルシヤ》国のフード・マントはまったく類がないといっていい。  しかも頭巾《ずきん》のあいだから覗《のぞ》いている一すじの捲き気味の髪が、火のように赤いのだ。 「だれだ」  と女はくりかえした。 「出てこい」  低い含み笑いが聞こえてきて、雪がひとひら、ふたひら舞いあがると、藪のなかに朦朧《もうろう》と人影が浮かびあがり、 「御前《おんまえ》に候」  幻阿弥がささの葉を鳴らし、ゆっくりと歩み出てきた。 「あなたは」  女は絶句し、うずくまった姿勢のまま、鞠《まり》のように後方に跳躍した。 「ふ、ふ、なにもいまさらおどろいてみせることはあるまいよ」  幻阿弥は笑い、 「斐伊川より鉢屋城、さらにここまでわしがあとをたどってきたそなたの幻術《めくらまし》、あまりに見事で、ほとほと感服つかまつった……相手が忍者であれば、この伊賀の幻阿弥、やわか遅れをとるものではないが、精神《こころ》をとばし、ひとにとり憑《つ》くそのわざ、いやはや、もしやそなたは狐狸|変化《へんげ》の眷属《けんぞく》ではあるまいか」 「わたしが変化であるものか」  今度は、女が笑った。 「とり憑《つ》いてやろうにも、精神《こころ》がない。ただふわふわと雲のようなものに精神《こころ》をただよわせているおまえ様のほうが、よほど変化であろ」 「かもしれぬ」  幻阿弥は真顔でうなずき、 「夢かよう、道さえ絶えぬ、くれたけの、出雲の……ではなく、本当は伏見の里であるが、そなた、『新古今和歌集』をひもといたことがあるまいか」 「なにをこけな……姫ご料人でもあるまいに、そのような風雅な身分であるものか」 「それはあまりに料簡《りようけん》がせまかろう、女子《おなご》には女子のたしなみというものがある。そなたが夢遣《ゆめつか》いであればなおさらのこと、せめて藤原有家のこの歌なりと、知っておいても損はなかろうに」 「わたしは夢遣いなどではない」 「お隠しあるな」  幻阿弥はまた笑い、 「日出ずる処《ところ》の天子、かの聖徳太子さまが夢殿におこもりになると、ありがたや、夢のなかに阿弥陀仏がおいでになり、さまざまに教えをくだされたという……その聖徳太子さまを崇《あが》めたてまつるたいしという一族に、夢ごぜと呼ばれる巫女がいると耳にしたことがあるわい。聖徳太子さまが建立《こんりゆう》なさった法隆寺に、夢違《ゆめちがえ》観音なる観音さまがおわすそうな。その夢違観音を崇めるのがそなたたち夢ごぜ、念をとなえて、夢をあやつり、善男善女に夢を授けてくれることもあれば、凶夢を吉夢に変えてくれることもあるという」 「要らざる賢《さか》しだちをして、あとで悔やまぬことじゃ」  女が吐き捨てるように言った。 「夢ごぜは吉夢を凶夢に変えることもできるのを忘れまいぞ」 「女子がそのようにおそろしげなことを言うものではないわ」  幻阿弥はいっこうに怯《ひる》んだふうもなく、 「なあ、たいし一族の夢ごぜどのがなにようあって、この出雲国まで足を運んできて、あの塔九郎なる者にとり憑いたのか、それを教えてはくれぬか」 「なにを横道《おうどう》なことを……おまえ様のおたずねにどうしてこなたばかりが答える必要があろうか」  女は笑うと、頭の葛かずらの飾りに手をやり、スルリと蛇が脱皮するように、しなやかに薄絹のマントを脱ぎ、その場にゆっくり立ちあがった。  小麦色の肌に、大きく、切れ長な眼がいきいきと澄んだかがやきを放っている。さしものの幻阿弥がいささかたじろぐほど、綺麗《きれい》な娘だった。のびのびとよく発達した四肢は、溌剌《はつらつ》とした健康美にあふれていて、豊かな黒髪に一すじだけ赤い捲き毛が流れているのが、なおさら彼女の山猫のような精気を際立たせているように見えた。 「ほう」  幻阿弥は言葉もない。 「このほうも言わせてもらうが、おまえ様は伊賀の曲舞《くせまい》衆のおひとりであろう」  女がなにか切りこむように言った。 「猿楽より能楽をひらいた観阿弥さまは、そもそもが伊賀の出自で、伊賀の国服部の伊賀平氏の流れをくむらっぱであったというではありませぬか。観阿弥さま、世阿弥さまの血をひきつぐおまえ様の一族は伊賀の庄でも貴種として崇めたてまつられているとか」 「ふむ」  幻阿弥はどうやらこの娘がおもしろくなってきたらしく、剽軽《ひようげ》たような表情でうなずいた。 「曲舞衆のおまえ様にお訊《き》きしますが」 「なんであろうかな」 「伊賀らっぱのおまえ様に、なにゆえ出雲国まで足を運んできたのかと問う者がいたとして、おまえ様はそれに平らかにお答えになりますか」 「答えぬであろうな」  幻阿弥は苦笑し、 「あいわかった」  そううなずくと、ぱらりと銀扇をひらき、藪のなかをつつっと滑るようにあとずさっていって、 「いずれ夢ごぜと曲舞衆の宿星《ほし》がまじわることもあろう。それまではなにも問うまい。語るまい」  ゆっくりと銀扇をあおぎ、ささの葉に積もった雪を舞いあげていき、しだいにそのなかに姿を隠していった。 「また会おうぞ」  雪がさらさらと落ちたとき、竹藪にはただ暁《あかつき》のあかい光がさしているだけで、幻阿弥の姿はどこにもなく、女もまた雪に溶けてしまったように消え失せていた。  高殿たたらは中世にあって、日本が世界に誇ることのできる製鉄工程だといっていい。  赤土で炉を築き、天秤ふいごで絶えず風を送りながら、三昼夜にわたり火を燃やしつづけて、砂鉄と木炭をそのなかに交互に投げ入れる。そして三昼夜が過ぎた朝、炉をこわして玉鋼《たまはがね》をとりだし、冷えるのを待って、大銅場へ運びこむ……  いってみればこれだけの工程にすぎないのだが、この時代にあっては、天秤ふいごは画期的な発明というべきで、これによって日本は世界でも良質の鉄を、大量に持つことができたのだ。  ただし、そのためには砂鉄を掘りださなければならない。  砂鉄を掘る者を鉄穴師《かんなじ》と呼び、その仕事を鉄穴《かんな》流しという。  鉄穴師は砂鉄を含んだ山を見つけ、傾斜面に井手《いで》と呼ばれる水路を引き、山をちょうなで崩して、土砂をその水路に落としていく。  土砂は水流に押し流されてしまうのだが、砂鉄は階段状に設けられたいくつもの池に沈澱していく。  それを多くのひとが掘りあげ、純度のたかい砂鉄を得るのである。  このころ鉢屋城をふところに抱いた山のなかに、良質の砂鉄を大量に含んだ谷があり、そこにもやはり井手《いで》がひかれて、鉄穴《かんな》流しの作業が行なわれている。  おどろくべきは、そこには鉄穴師《かんなじ》がただ一人しかいないということだった。  しかもその一人は両足を鎖で縛りつけられているのだ。  その名を、贄《にえ》塔九郎という。  幻阿弥が鉢屋城の地下牢で見た、あの若者であるのはいうまでもない。  塔九郎が鎖で縛られていることからもわかるように、ここは一種の懲役場であり、囚人たちは夫役《ぶやく》として送り込まれてくる。  そしてはやくて三日、どんなに頑健な男でもまずは一月《ひとつき》で、息絶えてしまう。  囚人たちはろくな食事とて与えられず、ただでさえ過酷な鉄穴流しの仕事を、眠るとき以外はまったく休みなく、つづけなければならないのだ。  じつは囚人たちは鉄穴師《かんなじ》としての労働力を当てにされていたのではなく、たたら師のために死人になるのを期待されていたのであった。  たたら師の守護神を金屋子神《かなやごしん》という。  金屋子はひとが死ぬのを穢《けが》れとは考えず、むしろそれを好みさえした。  金屋子神は四本柱に死体をくくりつけておいてもよかったというし、金屋子神社の本殿の下にはひとの骨が埋められ、供《そな》えられているという説がいまも残っているほどだ。  高殿たたらの長《おさ》である村下《むらげ》は、金屋子神をよろこばせ、良質の鉄を得んがために、死人を背中に負うことまでして、作業にあたったといわれている。  死人は消耗品であり、いわば供給が需要に追いつかず、そのために囚人をせめ殺すのもやむなしと考えられていたのだ。  弘治《こうじ》、永禄、群雄割拠のこのころ、天下《てんが》に戦乱があいつぎ、ただでさえひとの命が羽毛のように軽い時代であった。  この鉄穴《かんな》流しの懲役場で、十三歳のときより働きはじめ、なんと塔九郎という若者はそのまま七年も生きながらえてきたのだ。  ほとんど超人的なまでの生命力といっていい。  七年にもわたる鉄穴《かんな》流しの重労働が、塔九郎の体を逞《たくま》しく鍛えあげ、胸は巌《いわお》のようにぶあつく、腕もまた節《ふし》くれだった松の幹ほどの太さがあった。  そのくせ羽が生えているのかと思われるほどの敏捷《びんしよう》な動きを見せるのは、しばしば砂鉄の崖が頭上に崩れ落ちてきて、それを懸命に避《よ》けているうちに、自然に反射神経がつちかわれたためであった。  もちろん出雲巫女たちがおりにふれ、獣肉《ししにく》や卵など精のつく食べものを、差し入れてくれたせいもある。  牢内の食事だけではそもそも生をつなぐことさえ覚《おぼ》つかなかったろう。  贄《にえ》塔九郎は十三歳のときまで、出雲巫女たちの手によって育てられた。  二人や三人のおんなたちではなく、出雲大社の神符を売り歩く巫女たちがすべて、塔九郎の母になり、乳母になり、はした女《め》になって、塔九郎を育ててくれたのだ。  子が親のいるのをふしぎに思わぬように、塔九郎もまた自分が出雲巫女たちに育てられたのを、ふしぎには思わなかった。  それが妙なことだと思うようになったのは、十三歳の春、ふいに鉢屋城のものが押しかけてきて、拉致《らち》されて、この懲役場へ放りこまれたときからであった。  鉄穴《かんな》流しの作業に追いこまれたのは、いわば塔九郎は親も家もない乞胸《ごうむね》のようなものであったから、それなりに納得できぬではない。  納得できないのは、鉢屋城のものが妙に塔九郎に遠慮しているようなふしがあり、ただ一人だけ板敷の地下牢に住まわせているばかりか、出雲巫女たちがおりにふれて食べものを差し入れてくれるのさえ黙認しているというそのことであった。  十六歳になったとき、こともあろうに出雲巫女たちが牢に忍びこんできて、塔九郎に笑い絵を見せ、手をとり足をとり、男女のひそか事を教えてくれるようになった。  これも黙認されている。  おれはいったい何者であるのか?  ようやくその疑問が塔九郎の胸のなかに湧き起こってきた。  牢に忍びこんでくる出雲巫女たちにそれを尋ねても、本当に知らぬのか、あるいは恍《とぼ》けてでもいるのか、ただ笑うだけで、なにも答えてくれようとはしない。  父も、母も顔さえ憶えていない。  ただ塔九郎が幼かったころ、母が言ったらしいその言葉だけが、かろうじて頭のなかにかすかに痕跡をとどめ、遠い記憶となって残っている。  ——わが子ながら不憫《ふびん》でなりませぬ。ひとの子に生まれ、この子はついにさちを知らずに、無残にもかんなながしとして一生を送るのでしょうか……  眼をとじると、かすかに薄明のさしているような記憶のなかに、顔さえさだかではないはずの母が、白く、阿弥陀仏のように浮かんでくるのが見えてくる。  母上、仰せのとおり、塔九郎は鉄穴《かんな》流しとして一生を送ることになりそうです。  その顔に向かい、塔九郎はそう頭のなかでつぶやくのだった。  母が遺《のこ》してくれた言葉はそれだけではないような気もするが、ほかに塔九郎が憶えていることといえば、 〈すでに時刻になりしかば、青竜、白虎、朱雀《すざく》、玄武の四神《しじん》、高座《こうざ》に上がりて、燃えあがる……〉  なにやら謎めいてはいるが、無意味な言葉の羅列《られつ》にすぎないであろうこの呪文だけであり、これが母の遺してくれた言葉であるとは、とうてい信じがたい。  おそらくどこかで聞きおぼえたわらべ歌のたぐいではないだろうか。  おれはいったい何者であるのか、その疑問は日々《ひび》つよくなるばかりであったが、ついにその疑問がときあかされることもなく、鉄穴師《かんなじ》として一生を朽《く》ちはてていくのであろう、とそう思われた。  この日、両刃《もろは》蟹之助が忽然《こつぜん》として、塔九郎のまえに姿を現わすまでは…… 「何者であるか」  見張りの侍たちは不審に思ったにちがいない。 「はて、城のだれかが参ったのか」  そうも思ったであろう。  両刃蟹之助はただひとり、鉢屋の武士、足軽たち十人あまりをまえにして、風が吹きすぎていき、消え残った雪が地をはう鉄穴《かんな》流しの懲役場を、悠々と足を運んでくるのだ。 「お待ちあれ」  武士の一人が声をはりあげた。 「これよりさきは鉢屋のはがね場でござれば、いずこへ参られるか、それを承《うけたまわ》りたい」 「わしがいずこへ参るのか、それはわしにもわからぬが」  蟹之助はその幅広い顔にうす笑いを浮かべた。 「おぬしたちの行《ゆ》くさきであれば、わからぬではない」 「はて」 「西方浄土」 「なんと申される」 「は、は、そうでなければ地獄であろう」 「こやつ」  武士たちがとびすさるのと、蟹之助がそれこそ蟹がはさみをふりあげるように、両手で大小を抜きはらい、大きく跳躍するのとが、ほとんど同時であった。  いや、それをたんに跳躍と呼んでいいものか、なんとこの蟹ざむらいは身を半転させると、よこっとびに武士、足軽たちのなかに躍《おど》りこんでいったのだ。  足軽たちが慌《あわ》てて六尺棒を突きだすのを、難なく両断し、切先《きつさき》をかえして、すかさず頸《くび》を刎《は》ね上げている。  背を低くし、足を右から左に巧みにさばいて、よこに疾《はし》るさまは、まさしくひと蟹としかいいようがない。  武士たちもかろうじて刀を抜くには抜いたが、脇腹を向け、疾走してくるこの奇怪な刀術には、抗する術《すべ》もなく、 「あ、ああ」  一|颯《さつ》、二颯、蟹之助のふるう刀に、胴を斬られ、顔を割られて、悲鳴をあげながら、次々に血どろのなかに沈んでいった。  風が吹き、また雪が舞いあがった。  一瞬のうちに十人あまりの武士、足軽をことごとく打ち果たした蟹之助は、血に濡れた大小を両手に下げたまま、腰を伸ばして、雪のなかにうっそりと立っている。  血によごれ、あわい紅色に染まった雪は、あたかもさくらの花びらのようで、花ふぶき、血ふぶきのなかに立ちながら、蟹之助はその醜い顔になにか陶然とした微笑を浮かべていた。  蟹之助、という名は知らなくても、たしかにひと蟹のようなその武士を、塔九郎は鍬《くわ》を持ったまま、見つめている。  塔九郎の表情は平静で、その眼はしんと澄みきっていて、いささかも怯《おび》えの色がない。  むろん塔九郎は人が斬り殺されるのを見るのは、これが生まれてはじめてのことだが、自分がさして動揺していないことに、彼自身がおどろいている。  苦しく、希望のない鉄穴《かんな》流しの仕事を、七年ものあいだ続けてきたことが、いつしかこの若者に兵法の達人のような胆力をそなえさせていたようである。  ひとしきり吹きあれて、風はやんだ。  舞いあがった粉雪が、鉄穴《かんな》流しのはがね場を霧のように覆いつくし、やがてそれもしだいに収まっていった。 「贄《にえ》塔九郎とはよい名だ……古代、やまとが諸国を切りとり、国つ神を服属させるときには、神宝をさしださせて、御贄《みにえ》の奉献をもとめるのが習わしであった、というはなしを聞いたことがある。うぬがそのにえよ」  蟹之助はあざけるようにそういい、 「わしは常陸《ひたち》鹿島の神人《じにん》で、両刃蟹之助というものだ。鹿島神宮にくだされた神託により、うぬを成敗しに参った」 「鹿島神宮にくだされた神託?」  塔九郎は澄んだ眼をむけ、 「どういうことだ」 「なにもわからぬというか」 「わからぬ」 「あわれ、贄塔九郎」  蟹之助は慨嘆するように言った。 「この世にひとと生まれながら、おのれが何者かもわきまえず、むなしく滅びてゆかねばならぬのか」 「どうせ、このような境涯だ」  塔九郎は静かにそう言い、一歩しりぞくようにして、足の鎖を鳴らした。 「滅びて惜しいような身のうえでもない。なにゆえ成敗されねばならぬのか、そのことに合点がゆけば、大人しゅう斬られてやってもよい」 「いうわ」  蟹之助はクスクスと笑い、 「大人しゅう斬られるもなにも、うぬごときにわしが手古摺《てこず》るものかよ」 「…………」  塔九郎は沈黙している。 「だが、その心根はいささか不憫でもあり、教えてやらぬでもないが、塔九郎、これはわが慈悲と思え……うぬはな、魔性の生まれであるのだ」 「魔性の生まれ?」 「そうよ、うぬにはな、生まれながらに闇の太守という異名があるのだ。出雲の国は顕国《うつしくに》でもあるが、黄泉国《よみのくに》でもあるという、魑魅魍魎《ちみもうりよう》、すだまの国でもあるというのだ……うぬはその太守さまよ」 「なにをいっているのだ」  塔九郎は眉宇《びう》をひそめた。 「ほう、信じられぬか」 「信じるもなにもよまい言《ごと》ではないか」 「いかにもよまい言さ」  蟹之助はうなずき、 「だが、このよまい言はわしがいうのではないぞ。出雲国の闇の太守を斃《たお》すべし……おそれおおくも鹿島神宮の主祭神であらせられる武甕槌命《たけみかづちのみこと》よりそう託宣《たくせん》がくだされたのだ。いわば、このよまい言は神のお告げ」 「正気か」  塔九郎が冷やかにそう言うのに、 「なんの、正気であるものか。わしは歓喜したわい」  蟹之助はやや狂的なものを感じさせる笑い声をあげた。 「かの剣聖、塚原|卜伝《ぼくでん》も鹿島神宮に参籠《さんろう》すること一千日あまり、剣の奥義《おうぎ》をさとり、ついに夢中にて�一《ひとつ》の太刀�の神意をこうむったというではないか。以来、鹿島中古流、新当流の刀術を学ばんとするものは、鹿島の社家《しやけ》に逗留《とうりゆう》し、参籠するのが習わしとなった……わしはな、塔九郎、わずか二百余日の参籠で、うぬを弊《たお》すべし、という託宣をさずかった。さすれば武甕槌命の功力《くりき》を得て、わが兵法のわざは神技に達する、そう仰せあるのだ。兵法者と生まれて、これにまさるほまれはあるまい」 「もう一度|訊《き》こう」  塔九郎の声にはわずかにあざけるような響きがあった。 「おぬし、正気か」 「けえっ」  ふいに蟹之助が奇声を発すると、地を蹴って、長刀を頭上にふりかざし、真っ向から斬りこんできた。  塔九郎の髪が一すじ、二すじ、切断され、風に散っていった。  しかし塔九郎は微動だにせず、その涼やかな眼にも、いささかも動揺のくもりが見られなかった。  塔九郎があまりに泰然としているのに、蟹之助はやや意外そうな表情になったが、 「仁徳天皇の御世《みよ》に、国摩真人《くにすりまひと》なる兵法者がいて、鹿島の高天原《たかまがはら》において�神妙剣�なる刀術を神よりさずかったという。わしもな、うぬを斃して、恩寵《おんちよう》をさずかり、兵法者として天下《てんが》に名をひろめるのが所存よ」  そう言うなり、腰をおとし、ふたたび大小を蟹のはさみのように、頭上にかまえた。  塔九郎の眼はやはり涼やかで、冴えた光を放ち、鍬《くわ》を手にしていても、それをかまえようとさえしない。  蟹之助の二刀術に怯《ひる》んだ様子もないが、あえてそれに立ち向かおうという気もないようだった。 「よい覚悟じゃ」  甲羅《こうら》のような顔に、蟹之助はニヤリと笑いを浮かべ、 「出雲国の闇の太守、鉢屋城の囚人|贄《にえ》塔九郎を斬るべし、との神意をこうむったのは、わし一人ではないというぞ、鹿島神宮に参籠していた何人もの兵法者におなじ託宣がくだされたという。うぬはいずれだれかに斬られる運命《さだめ》にあるのじゃ。わしに斬られるを身の冥加《みようが》と思え、わしは心のやさしき男よ。いずれ天下に名を売ったあかつきには、丁重に供養してくれよう」  蟹之助は糸にでも引かれるように、つつっとまえに出てきて、その長刀を無造作に塔九郎のうえにふりおろそうとした。  そのとき思いがけなく、だあん、とはがね場に銃声が鳴りひびき、 「わあっ」  足元に散った火花にとびすさり、蟹之助ほどの兵法者が、無様《ぶざま》に雪のうえに尻餅をついた。 「お動きあるな」  背後から、あざけるような声が聞こえてきた。 「この寒空に、胸板にあながあいたのでは歩くのにもなにかとご不自由であろう」  すばやく弾《たま》ごめをし、鉄砲をかまえたのは、やや前びたいが禿《はげ》あがっているが、眼もとの涼しげな、いかにも気品のある容貌をした、まだ若い武士であった。  むろん塔九郎には見覚えがない。 「さすが出雲、伯耆《ほうき》は蟹どころとして名高いだけのことはある。山で鉄砲を撃てば、ひと蟹に弾があたる」  武士はまた蟹之助をからかった。 「ううむ、おのれ……」  蟹之助は怒りのあまり、それこそゆで蟹のように顔を赤く染めたが、鉄砲に狙われていたのでは、尻餅をついたまま、ぴくりとも身動きができない。 「贄《にえ》塔九郎さま」  武士は、今度は塔九郎に声をかけた。 「そのような蟹ざむらいとお戯《たわむ》れになるのは、もうおやめになったほうがよろしかろうと存ずる。ご身分に傷がつきましょうぞ」 「べつに戯れているわけではない」  塔九郎は苦笑し、 「それに、鉄穴《かんな》流しのこのおれになんの身分があるものか」 「いかにもかんなながし……ただし字が異なりましょうぞ」  武士は左手で宙に指文字を書き、 「鉄の穴にあらず、神の穴と書く。すなわち神穴《かんな》流し……贄塔九郎さまは闇の太守、出雲斐伊川で八岐《やまた》の大蛇《おろち》をお退治になった須佐之男命《すさのおのみこと》のお血すじであらせられる」     四  高天原《たかまがはら》を追放された須佐之男命は、出雲の国斐伊川の川上、鳥髪《とりかみ》の里(横田町鳥上の船通山)へただひとり降りたったという。  斐伊川に箸《はし》が流れてきたところから、上流に人が住んでいるのではないか、と思い、さかのぼっていくと、国つ神である大山津見《おおやまつみ》神の子|足名椎《あしなづち》、手名椎《てなづち》の老夫婦が、娘の櫛名田比売《くしなだひめ》をなかにして泣いていた。 「頭が八つ尾が八つ、その長さは八つの谷をわたる高志《こし》の八岐の大蛇が川上にいて、毎年のようにあらわれては、娘を食い殺していくので、これまでに七人の娘をうしなってしまったが、今年はとうとう最後に残った櫛名田比売が殺される番になってしまい」  それで泣いているのだ、と老夫婦は須佐之男命に訴えた。  そこで須佐之男命は大蛇を退治するのを決意し、酒盛りの用意をさせて、 「目は丹波|酸漿《ほおずき》のように真赤で、その体には蘿《つた》だの檜《ひのき》、杉の類が生え、その腹はいつも血が垂れて爛《ただ》れている」  八岐の大蛇が現われるのを待つ。  そして大蛇が強い酒を飲んで酔いつぶれているすきに、十拳剣《とつかのつるぎ》を抜いて、 「その大蛇をお斬り散らしになったので、肥の川が血になって流れて」  八岐の大蛇の尾を斬ったとき、なかから天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》が出てきたので、これは私すべきものではないとして、天照《あまてらす》大神《おおみかみ》に献上した。  これがすなわち須佐之男命の八岐大蛇退治の伝説なのだが、これにはさまざまな解釈があり、 〈大蛇を退治したというのは、斐伊川の治水工事に成功したことを意味している〉  という説があり、また、 〈八岐の大蛇は鉄穴《かんな》流しの泥によって濁った斐伊川上流のことである〉  あるいは、 〈中国山脈を群れをなして移動し、砂鉄を掘り、鉄穴《かんな》流しをした砂鉄業者たちを指して、八岐の大蛇といっていたのだ〉  という説もある。  そして当然のことながら、すべては現実に起こったことだ、と考えるものがいたとしてもふしぎはない。  すなわち明智十兵衛光秀なる牢人は、須佐之男命、八岐の大蛇は実在したというのだ。  もっとも現代人ではない。  十六世紀の永禄年間のひとであり、しかもところは出雲の国なのである。 『日本書紀』に記されている、 「彼の地に、多《さわ》に蛍火《ほたるび》の光《かがや》く神、及び蠅声《さばえな》す邪《あ》しき神あり。復《ま》た草木咸《ことごとく》によく言語《ものい》うことあり」  という一節はこの時代の人々にとっても、日々《ひび》の実感といってもよかった。  まさしくこの国では蛍火のかがやく神、五月蠅《さばえ》なす邪しき神がいて、草にも木にも精霊《せいれい》がひそみ、つねに人々になにかをはなしかけているのである。  しかしそれにしても自分を須佐之男命の血すじと考えるのはいかにも、 「信じがたい」  塔九郎はそうつぶやかざるをえない。 「なにがでござるか」  光秀がその言葉を聞きとがめた。 「なにもかもが」 「なにもいますぐにあれこれと信ぜずともよろしかろう」 「明智十兵衛殿」 「は」 「母はおれがかんなながしになると言うた」  塔九郎も宙に指文字を書き、 「神穴《かんな》流しという意味であろうか」 「おそらくは」 「神穴《かんな》流しがどのようなことで、闇の太守とは何であるのか、おれはなにも知らぬ」 「左様」  光秀はうなずいた。 「たしかに、なにもご存知ない」 「教えてはくださらぬか」 「さあ、それでござるが」  光秀は首をひねり、塔九郎の足もとにうずくまって、刃物をとぐようにし、しきりにはがねを動かしていたが、やがてよろこびの声をあげた。 「おう、ようやく切れましたぞ」  急に足が軽くなり、塔九郎は岩のうえに腰をおろした姿勢のまま、交互に足を動かしてみた。  鎖のあとがくるぶしにうすく残っていた。  ここは鉄穴《かんな》流しのはがね場からかなり離れた山のなかで、半刻あまりも走りまわって、なんとかあの蟹ざむらいから逃げおおせることができたのだ。 「教えてはくださらぬか、十兵衛殿」  鎖から解き放たれた礼を言うのもそこそこに、塔九郎はかさねてそう訊いた。 「お知りにならねばならぬことは、だれが教えるまでもなく、自然《じねん》にわかってくる。それがお血すじというものでござろうよ」  光秀はゆっくり立ちあがり、なにか突きはなすような口調で言った。 「この十兵衛めが申しあげられることは、塔九郎さまはだれにもまして大切なおからだゆえ、ゆめ、おろそかになされぬように、とただそれだけで」 「十兵衛殿には教えてはくださらぬのか」 「これはしたり、あまえられるは迷惑でござるよ」 「あまえる? おれが十兵衛殿にあまえているとそう仰せられるか」 「左様、ご自分の宿星《ほし》はご自分でさがすべきではござらぬか」 「おれの宿星《ほし》」  塔九郎の表情が歪《ゆが》んだ。 「しかし、おれはどこへ行けば自分の宿星《ほし》が見つかるか、それを知らぬのだ」  塔九郎にはめずらしく、その声には激したひびきがあり、それにおどろいたのか、頭上にひろがっている雑木の枝を、栗鼠《りす》が走っていった。  雪がサラサラと落ち、それがやがてささやくようなひとの声になった。 「それがしが」  と、背後の声は言った。 「案内《あない》つかまつりましょう」  塔九郎はおどろかない。  頭上を栗鼠が走ったときから、背後にひとの立つ気配はありありと感じていたし、それが昨夜、地下牢の天井裏にひそんでいたものと同一人物であるのにも、すでに察しがついていた。  塔九郎はさしてそれを特別なこととは思っていなかったが、いかなる心気の冴《さ》えからか、この若者にはどのような隠形《おんぎよう》術、幻術《めくらまし》もまったく通用しなかった。 「いや、昨夜はご無礼をつかまつった」  濃いねずみ色の忍び装束に身をかためたその男は、塔九郎の顔を見、なにか照れたような笑い声をあげた。 「このもの、伊賀の幻阿弥と申して、曲舞《くせまい》の幻妙なわざをよくし、間忍《しのび》、物見、流言《ふれあるき》となにかと調法なおとこでござれば、よろしければお貸しいたそう」  光秀が声をかけてきた。 「ご自分の宿星《ほし》をさがすにしても、道しるべというものがあったほうがよろしかろう」 「十兵衛殿、乞胸《ごうむね》も同様のこのおれに、なにゆえそのように肩入れなさるのか、おれにはどうしても貴殿がただの牢人とは思われぬのだ」 「それも」  光秀は奇妙なうす笑いを浮かべた。 「おいおいに」 「さて、お供つかまつりましょうわい」  幻阿弥がこともなげにそう言うのに、塔九郎は訊いた。 「いずこへ参ろうというのだ」 「ご自分の宿星《ほし》をさがしに」 「おれのほしを」 「左様」  幻阿弥はうなずき、 「塔九郎さまの宿星《ほし》をさがしに、石上宮《いそかみのみや》へ」  石上宮、この名の神宮は、全国にふたつあるという。  ひとつは奈良県天理市にある石上|布都御魂《ふつのみたま》神社、もうひとつは岡山県|赤磐《あかいわ》郡吉井町にある石上布都魂神社である。  両方とも延喜《えんぎ》式内社の神宮であり、須佐之男命となんらかのかたちで関係している。  しかし出雲の国に現在、石上宮の名を持つところはない。  永禄のこの時代にはあった。  塔九郎、幻阿弥のふたりのまえに、消え残った雪になかば埋もれるようにして、石上宮は大きくくちをひらいていた。  もう正午にちかく、あかるい日差しに雪はまばゆく、純白にきらめいている。 「ここが石上宮か」  塔九郎がそう問うのに、 「いかにも」  幻阿弥は顎《あご》を引くようにし、 「昨夜、この石上宮に伊賀の忍びが数人忍びいりましてな」 「ほう」 「ことごとく死にたえ申した」  幻阿弥の声にはかすかに畏怖のひびきが感じられた。 「わしの値踏みでは、あのものたちのわざはまず並の上、いかなることが起ころうと、やわか遅れをとるものではござるまいに、それが」 「死んだか」 「は」 「どのような傷であった? 金創《きんそう》か」 「さあ、それが」  幻阿弥は首をかしげて、 「このなかでなにが起こりましたものやら、そのからだが見るも無残に焼け爛《ただ》れて」 「火か」  塔九郎はうなずくと、そのままゆっくりと石上宮のなかに入っていった。  あまりに無造作な足の運びに、一瞬、幻阿弥はあっけにとられていたようだが、すぐに身を撓《たわ》めるようにして、塔九郎のあとを追いはじめた。  石上宮といっても、これは奈良や岡山にある延喜式内社の神宮ではなく、古代出雲国王の陵墓であった。  いわゆる古墳であるが、よほど出雲国王の勢力が強大なものであったらしく、丘陵を尾根から削《けず》りさげて、東西、南北それぞれ百メートルあまりの方形を切りだした、この出雲の地にもめずらしい巨大古墳であった。  羨道《せんどう》と呼ばれている通路が、棺をおさめた玄室までつづいている。  羨道は幅《はば》、高さともにそれぞれ二メートルほどあり、扁平な割石を小口積みにし、床には砂が敷きつめられている。  さほど息苦しくはなく、また幻阿弥のかかげている松明《たいまつ》の火が、わずかに揺らいでいるのを見ると、どこかに風穴があるらしい。  羨道はすぐにつき、小さな庵室《あんしつ》ほどの広さの玄室があり、そこになかば朽ちかけているような木棺が安置されていた。  おそらくいつも外界を見ることができるように、という配慮からか、石天井のひつぎの真上には小さな穴が穿《うが》たれていて、そこからかすかに日の光が漏《も》れている。  幻阿弥が木棺のわきまで歩いていき、そのなかを覗《のぞ》き込んだ。 「長い年月にほとけはすっかり地に帰《き》してしまったようでござりまするな」  幻阿弥はそう言うと、木棺のなかから古代の鏡をとりだした。 「残っているのはこのようなものばかりで」  鏡、といっても古代のそれは、姿見として使用されたものではなく、農耕祭祀儀礼や呪術的な権威を持った、政治神事をつかさどる権力者を象徴するものとしての意味あいのほうが強かった。  丸い鏡には鈕紐《ちゆうひも》をとおす孔があり、せまい文様の帯により、すべて帯文として表現される外区と、図像が表現されている内区とに分けられている。  この内区に鋳出されて、浮きあがっている図像によって、鏡の名称が名づけられているのであるが、 「はて、これは何でござろうかな」  鏡の図像を指でなぞるようにしながら、幻阿弥はしきりに首をひねっている。 「それは方格規矩四神《ほうかくきくしじん》鏡」  塔九郎が落ちついた声でいった。 「そこに鋳出されているのは青竜、白虎、朱雀《すざく》、玄武の四神」 「なんと」  幻阿弥があっけにとられた顔になるのに、 「おれは想いだした」  塔九郎はむしろ沈痛な表情で言った。 「なにもかも想いだしたのだ」  はかなく、ちぎれちぎれの記憶にすぎなかった母の言葉が、ふいにその一言半句にいたるまで克明によみがえってきて、塔九郎はいま自分がなにをなすべきかを、はっきりと覚っていた。 〈すでに時刻になりしかば、青竜、白虎、朱雀、玄武の四神、高座に上がりて、燃えあがる……〉  幻阿弥の手から静かに鏡をとると、塔九郎は石天井を仰ぎ、そこに穿《うが》たれている穴を見つめた。  すでに陽は中天にさしかかっているらしく、穴から漏れる光が白く燃えあがり、一すじの光矢となって、木棺をくっきりと浮かびあがらせていた。 「なにをなさいますので」  幻阿弥がそうおどろきの声をあげるのにも、見向きもしないで、塔九郎はゆっくりと木棺のうえに乗って、両手で頭上に鏡をささげ持つようにし、陽光にかざした。 「おおっ」  幻阿弥の声はほとんど悲鳴にちかかった。  陽の光を反射し、鏡はまばゆい白光を放つと、それが車輪の輻《や》のように、玄室のなかをめまぐるしく回転していき、やがて一方の壁をあかあかと照らし出した。 「おお、おお……」  幻阿弥ほどの忍者が、あまりのおどろきにただ痴呆のように、うめくのをくりかえしているだけだった。  一瞬ではあるが、たしかにその壁のうえに青竜、白虎、朱雀、玄武の四獣神の影が浮かびあがり、いかなるからくりが仕掛けてあったのか、ずうんと腹にひびく重い音を残して、石塊がうしろに崩れていった。 「石上宮《いそかみのみや》はここが入り口のようだ」  塔九郎は木棺からおりて、静かにそういった。  隠し穴は巨獣の顎《あぎと》のように、二人の眼のまえに黒々とくちをひらき、そこからなにか饐《す》えたようなにおいのする風が、びょうびょうと吹きよせていた。     五  さすがに安国寺の恵瓊《えけい》が選《よ》りすぐった伊賀忍者たち、方格規矩四神《ほうかくきくしじん》鏡の謎に気がついた様子はなかったが、この隠し穴をさぐりあてることだけはできたらしい。 「それがかえって仇《あだ》になり申したわい」  羨道《せんどう》に松明《たいまつ》の火をかざしながら、幻阿弥は沈んだ声で言った。  幅一メートル、高さ二メートル、奥ゆきもせいぜい三十メートルほどしかない羨道だが、そのわずかな距離にあるいは伏《ふ》し、あるいは石壁に背をもたせかけるようにして、目で数えたかぎりでも少なくとも六人、伊賀忍者が死んでいた。  むしろまだ死骸は腐敗にまではいたっていないが、おびただしい量の血糊がかわき、こびりついて、異臭を羨道にたちこめさせている。 「これほどのものたちが、なにゆえにこうもはかなく落命いたしたものか。それをおなじ伊賀忍びの手でさぐりだしてやるが、このものたちにはなによりの供養でござりましょうな」  幻阿弥はそういうと、松明を塔九郎の手にわたし、眼を半びらきにし、しばらく羨道の入り口に立ちつくしていた。   花をも憂《う》しと捨つる身の、花をも憂しと捨つる身の、月にも雲は厭《いと》わじ……  幻阿弥の口からそう謡《うたい》の声が洩れきこえてきたときには、もう彼の意識は自己催眠のなかば眠り、なかば覚めた状態のなかにただよいはじめていたようで、その体の線がなにか優しく、やわらかなものになっていくのが、はっきりと感じられた。 「幻阿弥」  塔九郎がそう声をかけたときには、すでに幻阿弥は歩きはじめている。  謡にあわせ、おのれの脈搏、吸う息、吐く息を舞いのなかに自然に融けこませるようにして、ひらひらと上体を舞わせていた。  ふいに強弓の弦《つる》を放つような音が、羨道にひびきわたり、木槍がぐわっと壁からとびだしてきた。  幻阿弥はふわりと上体を泳がせると、脇差を抜きはらい、木槍の尖端を両断した。  反対側の壁からも木槍がとびだしてきたが、その風の動きに押されたかのように、上体をすっとかがめて、ふりかえりざま、これも尖端を切り落としている。  まさしく槍ぶすま、侵入者を串刺しにしようと、頭、胸、腹をねらって、両側の壁からつづけざまに槍がとびだしてきて、ひとのおたけびのような轟音《ごうおん》が、羨道を満たした。  一瞬、塔九郎は幻阿弥が針ねずみのようになるのを見、その悲鳴を聴いたように感じたのだが、それは幻覚であり、幻聴にすぎなかった。  幻阿弥はわずかに上体のみを揺らし、さして大きな動きも見せないのだが、それでいて胸を反らし、上体をかがめ、身をよじり、たくみに木槍をかわして、ことごとくその尖端を切り落としている。   月も宿借《やどか》る昆陽《こや》の池、水底《みなそこ》清く澄みなして……  ついに羨道をわたりきった幻阿弥は、脇差を扇に見たて、しずしずと足を運び、岩戸のまえにゆっくりとうずくまった。  おそらくひとが歩くその重さによって、放たれる仕掛けになっているにちがいなく、尖端を切り落とされ、いまやただの棒にすぎなくなっている〈木槍〉は、またスルスルと壁のなかに戻《もど》っていった。  幻阿弥はしばらく岩戸のまえにうずくまったままでいたが、やがてなにか重い吐息を洩らすような声で言った。 「おいでなされませ」  塔九郎はうなずき、羨道にゆっくりと足を運んだ。  壁の割り石のはざまから〈木槍〉がとびだしてきたが、もうただそれをはらいのけるだけでよく、塔九郎はなんの苦労もなく、岩戸までたどりつくことができた。 「怪我はあるまいな」  塔九郎がそう尋《たず》ねるのに、 「なんの、謡い、舞うのは、それがしの道楽でござるよ」  幻阿弥はしぶい笑いを見せ、脇差を腰に収めると、立ちあがった。 「とは申しても、この岩戸をひらくにはわが舞いではいささか霊験《れいげん》およばず、あめのうずめのみことに助力を乞わねばなりますまいなあ」 「…………」  塔九郎は、岩戸を仰いだ。  岩戸は幅が両手をひろげたほどあり、高さは塔九郎より首ふたつぐらいたかく、屏風のように切りたっていた。  指を這わせると、ようやくそうわかるほど、巨岩がわずかな狂いもなく、穴に填《は》めこまれていて、なるほど、この岩戸を動かすにはあめのうずめのみことに舞いの助力を乞うしかないような気がしてくる。  松明《たいまつ》を幻阿弥にわたし、塔九郎はしばらく岩戸を見つめていたが、 「ふむ」  ゆっくりと首をふり、うなずくと、腰をおとして、両手を胸のまえに組み、肩を岩に押し当てた。 「と、塔九郎さま、いかにあなた様が膂力《りよりよく》に秀でていようと、それはあまりにむりというものでござりましょう」  幻阿弥が叫ぶように言った。 「金剛力士の功力《くりき》を得でもせぬかぎり、ひとにはぴくりとも動かせるものではござりますまい」 「岩戸が動くか動かぬか」  塔九郎はそういい、微笑した。 「運命《ほし》を見てみるさ」  表情をひきしめ、大きく息を吸い、その息をゆっくりと吐きだすようにして、それをくりかえし、しだいにからだに力をたくわえていき、心気を充実させていった。  塔九郎はもうなにも考えようとはせず、眼をとじ、臍下《せいか》に力をこめて、大弓をきりきりと引きしぼるようにして、一気に力をときはなつときがくるのを、ただひたすら待ちうけているのだ。  金剛力士の功力を得るどころか、塔九郎本人が金剛力士さながらの、凄《すさま》じいばかりの気迫をみなぎらせて、見ている幻阿弥のほうが息苦しくなるほどだった。  顔が紅潮していき、肩や上膊部《じようはくぶ》に力こぶが盛りあがっていって、 「やああっ」  獣が咆哮《ほうこう》するのにも似た叫び声が、塔九郎の喉からほとばしり、それが羨道にかみなりのように響きわたった。 「南無八幡」  塔九郎は呻《うめ》き声をあげた。 「われにわが宿星《ほし》を与えよ」  塔九郎の顔が真っ赤に充血し、いまにも耳や鼻から血がふきださんばかりに見えた。  懸命にふんばった足が、地にふかいみぞを掘り、赤銅《しやくどう》色の皮膚の下で、筋肉や骨がギシギシときしむ音が聞こえてくるかのようだった。 「ううむ」  塔九郎がまた呻き声をあげ、 「お諦《あきら》めなさい」  見るに見かねて、幻阿弥がそう叫んだ。 「とてもむりというものじゃ」  そのとき岩戸がふいに揺らいで、砂や、土埃《つちぼこ》りが白く、塔九郎の頭のうえにふりかかってきた。 「と、塔九郎さま、岩戸がひらく」  幻阿弥が声をはりあげた。  ず、ず、ず、と岩戸がしだいに退《さ》がっていき、それまであるかなしかにしか見えなかった岩の継ぎめが、くろぐろと幅をひらいていき、ほこりが羨道に舞いあがった。  それまで肩でのみ押していたのに、さらに頭突きをするようなかたちで力を加え、最後の力をふりしぼるようにし、塔九郎がもう一押しすると、ずーんという鈍い地響きを残して、岩戸は崩れていった。  勢いあまって塔九郎はそのまま玄室のなかにたおれこんでいき、大事ござらぬか、と叫びながら、幻阿弥もあわててそのあとを追った。 「おおっ」  そして二人ながらにそう叫んでいる。  轟《ごう》っ、と熱風が押しよせてきて、二人の眼のまえに炎が渦を巻き、燃えるあぶらが飛沫となって、からだのうえに落ちてきた。  おそらく岩戸と連係しているのだろう、二本の鎖がじゃらじゃらと地を擦《こす》る音が聞こえてきて、本物の馬より一回《ひとまわ》りも、二回りも大きそうな埴輪《はにわ》の馬が、やはり巧妙な仕掛けにあやつられて、二人のすぐ目前まで迫ってきていた。  埴輪の馬は面繋《おもがい》、辻金具、胸繋《むながい》などの馬具をつけ、脇腹にあぶみまで下げていたが、背中には鞍《くら》がなく、前輪、後輪のあいだは火壺になっていて、そこから真っ赤な炎が燃えあがっていた。  岩戸をあけると、二本の鎖が前後に床を這い、巨大な埴輪の馬を動かして、火壺の蓋《ふた》をひらき、そのなかの油に火を落とす……  いってみれば、これだけの仕掛けにすぎないのだが、せまい玄室のなかで、重く、巨大な埴輪の馬が迫ってくるのを、しかも背中の火壺にからだを灼《や》きながら迫ってくるのを、いかにして防げばいいというのか。  せまい玄室のなかでは逃げもならず、よしんば埴輪の馬を押しかえすだけの膂力《りよりよく》があったとしても、そのからだに手を触れようものなら、たちどころに掌《て》が焼け爛《ただ》れてしまうにちがいない。  さしもの伊賀の幻阿弥がとっさに抗する術《すべ》を知らず、その場に立ちすくんでしまっている。  幻阿弥のカッと見ひらいた眼には、全身から青白い陽炎《かげろう》をたちのぼらせながら迫ってくる埴輪の馬、玄室の奥におかれている舟形《ふながた》石棺、そして全身を焼け爛れさせて、絶命している伊賀忍者たちのすがたが、じつにあざやかに映っていた。  やれ、はかなや、わが命運もここでつきたわい、一瞬、そんな想いが胸をよぎり、幻阿弥はにが笑いさえ洩らしたのだが、 「やあっ」  塔九郎の凄《すさま》じいばかりの声が聞こえてきて、ハッとわれにかえった。  塔九郎はふところからあの方格規矩四神鏡《ほうかくきくしじんきよう》をとりだし、両手で楯《たて》のようにかまえると、迫ってくる埴輪の馬をがっしりと支えて、それを逆に押しかえしたのだ。  埴輪の馬は横だおしに倒れていき、砕けて、かけらが舞い、火壺の油がこぼれて、たちまちのうちに炎は玄室に燃えひろがった。  塔九郎はなにを思ったのか、身をおどらせるようにし、炎のなかにとびこんでいき、そのすがたは黒煙にさえぎられて、すぐに見えなくなってしまった。 「ちっ、物狂いなされたか」  幻阿弥もまた炎のなかにとびこんでいこうとして、あっ、と悲鳴をあげて、逆にとびすさり、ぴたりと壁に背中をはりつけた。  激しく燃えあがる炎が、玄室の奥の舟形石棺を玻璃《はり》のように妖《あや》しく、あかあかと浮かびあがらせている。  その舟形石棺の蓋《ふた》がわずかに持ちあげられて、なかのだれかの手によって、じりっ、じりっと脇にずらされていくのが、たしかに見えるのだ。  しかしそのひつぎのなかには、千年以上もまえに死んだ出雲国王の骸《むくろ》がよこたわっているだけのはずではなかったか……  ついに石蓋がひつぎのうえから外れ、火の粉を散らしながら、ゆっくりと炎のなかに沈んでいった。  ひつぎの縁《ふち》に黄ばんで、ほとんど骨に腐肉がこびりついているだけの手がかかり、燃えあがる炎のむこうに、なにかがゆっくりと上半身を起こしていくのが見えた。 「けえっ、化けもの」  幻阿弥はそう叫ぶなり、つづけざまに十字剣を打った。  たしかに十字剣はあたったはずなのに、そのなにかは苦痛にもだえる様子もなく、あいかわらず緩慢な動きで、ひつぎから脱出しようとしていた。  幻阿弥は喉を締めつけられるような恐怖、焦燥感におそわれながらも、どうする術《すべ》もなく、ただその場に立ちすくむのみだった。 「獏《ばく》食え、獏食え……」  どこからか女の声で、そんな呪文が聞こえてくるのに気がついた。  夢違《ゆめちがえ》観音をあがめるものたちがよく口にする呪文で、凶夢を吉夢にかえるための、あるいは悪夢になやまされているひとを慰さめるためのまじないとして知られていた。 「獏《ばく》食え、獏食え、獏食え」  業火が燃えさかる玄室にあって、その声は優しく、心のひだに忍び入ってきて、ふと涙ぐみたくなるような安らぎを覚えさせるのだった。  その声が現実のものであるのか、それともどこかで一心に念じているものが、そうした声として聞こえてくるにすぎないのか、それはいまの疲れきった幻阿弥にはなんとも判断しようがなかった。  いまにも石棺から脱けださんばかりだったそのなにかは、獏食え、獏食え、の呪文にあわせるようにして、上半身をわずかに揺らしていたが、やがてようやく凶夢から逃がれることができたというように、また静かに身をよこたえていった。 「獏食え、獏食え……」  しだいに低くなっていくその呪文を聴きながら、幻阿弥はもうなにも考えようとはせず、ただ林のなかで会った、あの美しく、精悍な夢ごぜの顔をしきりに想いだしていた。 「幻阿弥」  声がきこえ、手に持った剣で右に、左に炎を薙《な》ぎはらうようにしながら、塔九郎が姿を現わした。 「無事であったか」 「はい、おかげをもちまして」  さすがにホッと安堵《あんど》し、幻阿弥が笑いを浮かべるのに、 「退散いたすとしよう。長居をすべきところではなさそうだ」  塔九郎は明かるくそう命じた。 「その剣はいかがなされたので?」 「これか」  塔九郎は笑い、 「これが石上宮《いそかみのみや》の秘宝であるらしい」 「その剣が、でござりまするか」 「銘が打たれてある」 「ほう、銘が」 「十拳剣《とつかのつるぎ》」  それまで幻阿弥のすぐまえを走っていた塔九郎は、ふいに羨道のなかに立ちどまり、剣を頭上にかざした。 「おもしろし、須佐之男命が八岐《やまた》の大蛇《おろち》を討ちはたした剣が、銘もおなじ十拳剣であったというぞ」  そのとき玄室の石天井が崩れ落ち、燃えさかる炎のなかに沈んでいくのが、とてつもない轟音となって、あたかも二人に追いすがるように、はるか後方から迫ってくるのが聞こえてきた。 「あ、安国寺|恵瓊《えけい》……」  幻阿弥が喉がひりついたような声を洩らした。  石上宮のまえでは恵瓊が二人が出てくるのを待ちかまえていたのだ。  恵瓊の背後には伊賀の忍びたちが何人か、影のようにうずくまっていた。 「贄塔九郎《にえとうくろう》殿と申されるか」  と恵瓊は静かな声でいい、 「まことにいいにくいことではあるが、あなたさまが手にお持ちの十拳剣、それをこのほうに渡してはいただけぬか」 「いやだ」 「塔九郎殿」 「と申しあげれば、どうなさるご所存か」  塔九郎は微笑さえ浮かべている。 「拙僧、仏に仕える身なれば、血なまぐさい真似は苦手ではあるが」  恵瓊はため息をついた。 「ここにひかえる伊賀の忍びたち数名、塔九郎殿に解きはなつほかはござりますまい」 「————」  ふいに塔九郎が笑い声をあげた。 「せ、拙僧を愚弄《ぐろう》なさるのか」  その笑い声にかっとした恵瓊がそうわめこうとするのを、 「まずは周囲をご覧あれ」  塔九郎が制した。 「おおっ」  伊賀の忍びたちのあいだにどよめきが走った。  樹の陰、雪だまりの陰におびただしい数の歩き巫女《みこ》たちがうずくまり、恵瓊たちを凝視しているのだ。なにかことが起きれば、襲いかかってこようと思い決めているらしく、彼女たちの殺気のようなものがひしひしと伝わってくるのを感じた。 「仏に仕えるご坊が女どもにとり殺されたとあっては、あの世で申しひらきがたちますまい」 「ううむ……」  恵瓊がうめき声をあげた。 「歩き巫女はわれらの仲間のようなものでござる」  忍びの一人が悲鳴のような声をあげた。 「あの者たちと諍《いさか》いを起こせば、たちどころに回状がまわり、われら間忍《しのび》、物見の稼業《よすぎ》がたちゆかなくなりまする」 「いかが」  塔九郎は微笑している。 「負けた」  恵瓊はフッと肩の力を抜いて、 「いずれまた会うこともあろう。ここはひとまず退散つかまつろう」  恵瓊たちも去り、歩き巫女たちも潮が引くように去っていった。  だが塔九郎と幻阿弥の二人はその場を動こうとはしない。  やがて雪のなかからむくりと身を起こし、二人のまえに立ちふさがった影があった。 「もはやだれにも邪魔だてはさせぬぞ」  その武士、両刃蟹之助は歯を剥《む》きだし、醜く笑った。 「贄《にえ》塔九郎、われと仕合え」  蟹之助はそう叫びざま、ぱっと大小を鞘走《さやばし》らせて、腰を沈め、また蟹がはさみをふりあげているような、あの構えをとった。  塔九郎はただ冷たく澄みきったまなざしを、蟹之助に向けているのみで、右手に下げた十拳剣を、ことさらに構えようとさえしなかった。  幻阿弥は数歩あとずさり、二人を凝視していたが、じつは戦うまでもなく、彼の眼には勝敗はおのずから明らかになっていて、さしてこの決闘には興味がなかったのだ。  わしはそなたがなにゆえ、わしらにとり憑こうとしているのかは知らぬ……  幻阿弥は念を凝《こ》らし、どこかに潜んでいるはずのあの夢ごぜに、しきりに話しかけていた。  わしもそなたもいわば人外の化生《けしよう》、魑魅魍魎《ちみもうりよう》のたぐいかも知れぬ。曲舞《くせまい》衆にも夢ごぜにも宿星《ほし》が見えぬでな、この乱世には所詮《しよせん》は不要のものじゃ……だが、この贄塔九郎というおひとはご自分の宿星《ほし》をさがそうというおつもりじゃ、わしやそなたの宿星《ほし》も、あるいはさがしだしてくれるやもしれぬ……それに塔九郎さまは闇の太守であらせられる。幻も、夢も、闇のなかでこそ大ぶりの花を咲かせるのではなかろうか……なあ、夢ごぜどの、せめて名なりと明かしては貰《もら》えぬであろうか…… 「参《まい》る」  蟹之助がそう叫び、さらにふかく腰を沈めたとき——  幻阿弥は背後にフッとなにかが忍びよってきて、その気配がすぐに風のように過ぎ去っていったのを、はっきりと感じていた。  ことさらにゆっくりとふりかえった幻阿弥の眼に、雪のうえに残された「馬酔木」の三文字が映った。 「おう、あしびであるか」  幻阿弥は微笑して、 「よい名ではないか」  そのとき蟹之助が、ええい、と気合を発し、疾風《はやて》を起こして、よこっとびに塔九郎に襲いかかっていった。  ただの一合も交えなかった。  塔九郎は無造作に十拳剣を刎上《はねあ》げて、蟹之助の脇腹を、肋膜から肩まで裂き、かえす刀で脳天を断ち割っていた。 第二話 飛騨桃源郷《ひだとうげんきよう》 晋《しん》の太元《だいげん》の中《ころ》、武陵《ぶりよう》の人、魚を捕うるを業《なりわい》と為《な》す。渓《たに》に縁《そ》いて行き、路の遠近を忘る。忽《たちま》ち桃花の林に逢う。夾《はさ》みて数百歩、中に雑樹なく、芳《はな》さく草の鮮《あざや》かに美しく、落つる英《はなびら》は繽《みだ》れ紛《ま》えり。 『桃花源の記』陶淵明《とうえんめい》     一 「春だ」  と、若者がいった。  感きわまって、胸中より迸《ほとばし》ったような声だった。  そして立ちつくし、しばらく庭を見つめている。  桃の花びらが吹雪のように舞っていた。  禅刹《ぜんさつ》庭園と呼ばれる造りの庭である。池があり、滝がある。自然の傾斜地をそのまま利用し、岩島や小島、あるいは山陵を模した枯山水《かれさんすい》石組の庭が、見わたすかぎりひろがっているのだ。  その庭のうえ、池のうえを桃の花びらがおびただしく舞い、春の明かるい日差しのなかにきらめいている。  池のほとりでは枝垂《しだれ》桜がつぼみをふくらませていて、水面《みなも》に浮かぶ水ばしょうがもうのびやかに白帆を立てようとしていた。  池に蓮が植えられているのは、この庭が仏教の理想郷をなぞらえ、常春浄土をうつしているからであろう。  その池をはさむようにして、幾つか建てられている堂舎の配置も、極楽浄土の宮殿配置を遵守《じゆんしゆ》しているようだった。  なかでも観音殿は閣頂に銀の鳳凰《ほうおう》をひるがえさせて、外壁にはことごとく銀箔《ぎんぱく》を押してあった。  慈照寺、すなわち後《のち》にいう銀閣寺——  いや、そうではない。  慈照寺はうちつづく戦乱に荒廃し、永禄《えいろく》のこの世にはかろうじて東求《とうぐ》堂と銀閣だけが焼け残っているはずだ。なにより山ひだに雪を残し、堂舎群の背景にそびえているのは、京都の東山ではなく、飛騨|帰雲山《かえりぐもやま》であった。  風に散る桃の花びらと、銀箔をきらめかせた観音殿、その艶《えん》ともいうべき光景に、ふと気圧《けお》されたものを覚えたのか、若者はゆっくりと空をあおいだ。  山の中腹に、内島《うちがしま》氏を城主とするかえりぐも城がそびえている。  内島氏は飛騨の国|白川郷《しらかわごう》牧戸(荘川村)を支配し、山城を三つまでも築いている。出城ともいうべき牧戸城、荻町城、それにこのかえりぐも城であった。  帰雲城と書く。  白川郷に入った内島|為氏《ためうじ》という武将が寛正六年(一四六五)にこれを築き、それから百年ちかくも過ぎた永禄のいま、二代目の雅氏《まさうじ》が帰雲城を支配している。  そして帰雲城のふところに抱かれるようにして、その崖すそに銀閣寺もどきの堂舎群が築かれているのだ。  おそらく若者はまだ十七、八にしかなっていまい。りりしく、たくましい。名は内島|氏理《うじまさ》、現城主の雅氏の子であり、初代の為氏にとっては孫にあたる。 「若」  小者《こもの》がきて、氏理の背後にかしこまった。 「お屋形《やかた》さまのお召《め》しでございます」 「うん」  氏理はうなずいたが、桃の花のあでやかさに去りかねているのか、なおもその場に立ちつくしている。 「若」 「うん」 「火急のお召しでございますれば」 「わかっている」  歩き去るまえに、ちらりと庭園を一瞥《いちべつ》した氏理の眼には、なにか奇妙に鬱屈《うつくつ》した翳《かげ》のようなものが感じられた。  庭園の片隅に、茶室がある。  氏理はその茶室に入った。  ふつうの茶室とはなにか造りが異なってでもいるのか、そのなかは妙にうす暗く、ただ下地窓に桃の花がうっすらとあかるんでいるのだけが見える。  炭は熾《おこ》っている。  炉には釜ではなく、なにか黒ずんだ、骨のようなものが投げ込まれていた。異臭がただよい、眼に痛い。 「来たか」  闇のなかから、声がきこえてきた。  声はかすれている。妙なことに、どこからきこえてくるのかも定かではない。わずか四畳半の茶室が、広大な窖《あなぐら》のようにふかぶかと闇を呑んでいるのだ。 「見よや」  炭火のあかりのなかにすじばった手が浮かび、その長い人差し指が伸びた。 「骨が唄うておるぞよ」  だれかが火吹き竹で風を吹きこみでもしたかのように、一瞬、炭火があかあかと燃えあがり、ぴしり、と炉の骨が鳴った。  いや、骨ではない、これは亀の甲羅《こうら》であった。煮しめた鼈甲《べつこう》のように色変わりした亀の甲羅が、しきりにひびを走らせ、音をたてているのだ。  養老天平のいにしえより、この国には甲羅を火にくべて、そのひびによって未来を観《み》るという呪法《じゆほう》が存在する。  すなわち、占甲骨である。 「どのような唄でござりましょうか」  にじり口に膝を入れてから、はじめて氏理《うじまさ》が口をひらいた。 「きこえぬか」 「なにも」 「ひびをよめぬかよ」 「なにさま未熟者でござれば」 「忌《い》み歌を唄うておるのだ」  声が暗い、深沈とした響きを帯びた。 「ひとがおびただしく死ぬるとよ」 「ひとが、でござりまするか」 「おうさ」 「戦国の世でござりますれば」  氏理はなにをいまさら、とそう思ったにちがいない。戦国の世にひとが死ぬのは、四季のうつろいのなかに枯れ葉が舞うのにも似て、ほとんど自然現象といっていい。なにも亀の甲羅をよむまでもないことではないか。 「そなたもこの白川郷よりときはなたれ、その戦乱の世におどり出たいと念じているのではないか」 「なにを仰せられます」  氏理の声には狼狽《ろうばい》の響きがあった。 「わたくしはなにもそのようなことは」 「一度たりとも考えたことがないと、そう申すのか」 「お屋形《やかた》さま」 「隠すことはあるまいよ」  低い、含み笑いがきこえた。 「そなたは若い。一国の武将たる器量の持ちあわせもある。力さえあれば、他国を切りとるのも思うがままの戦国の世だ。せまい白川郷をになっているだけでは、うずうずと血が鬱《うつ》してくることもあろうよ。したが氏理」 「は」 「出るなよ」 「…………」 「白川郷を出るでないぞ」  と、くりかえした。 「尾張の織田|上総介《かずさのすけ》、あれを軍神|摩利支天《まりしてん》の再来ではないか、とうわさするものもいるというが、生神《いきがみ》どころか、あれは魔王さ。いずれは山河を血に染め、しかばねで埋めることになるであろうよ。そなたが申したとおり、ひとを殺すが戦国のならいではあるが、織田上総介信長、あのものの残忍さ、苛烈《かれつ》さ、ひとのできることではない」 「お、お屋形さま、そのように」 「おう、ひびが忌《い》み歌をささやいたわい」  粗朶《そだ》を炉にたしたらしく、また炭火が真っ赤に熾《おこ》った。  その炎のゆらめきのなかに、一瞬、ひとの顔が浮かびあがったが、それが一人のものではなく、二人の顔のように見えた。むろん声がただ一人のものであることにまちがいはなく、顔が二人に見えたのは、なにかの錯覚であったろう。いずれにせよ、それをたしかめようにも、もうその顔は闇のなかに消えてしまっている。  小者が「お屋形《やかた》さま」と呼んだからには、その顔の主はかえりぐも城主の内島|雅氏《まさうじ》であるはずだった。それにしては実子の氏理《うじまさ》がおなじように「お屋形さま」の名で呼んでいるのが、いささか不自然ではあったが、これはもしかしたら内島氏の慣習ででもあったろうか。 「上総介が……」  氏理がそう意外そうにつぶやいたのは、織田信長はこのときにはまだ田楽狭間《でんがくはざま》で今川義元を斃《たお》したのみで、隣国美濃の稲葉山城さえ陥《おと》しかねていて、武将としてかくたる評価は得ていなかったからであろう。 「氏理、そなたの器量を重んじればこそ、このようにいうのだ。かまえて白川郷を出てはならぬ。出れば、滅ぶぞよ。この飛騨山中にとじこもり、蓑虫《みのむし》を決めこむことよ」  また含み笑いをして、 「いかに甲斐《かい》の武田が手をさしのべてこようともな、出ぬことじゃ」 「そ、それを」 「おう、知っておるわさ」 「…………」  氏理は唇をつよく噛《か》んだ。 「わしがこうまでくどく念押しするのはな、上総介ひとりのことではないのだ」  声がさらにかすれて、 「忌《い》み歌がな、べつの音《ね》もきかせてくれたのよ」 「と仰せられますと?」 「闇《やみ》の太守《たいしゆ》」  粗朶《そだ》が、炉のなかの甲羅をかるく叩いた。  不明瞭にではあるが、甲羅のひびはたしかに「贄《にえ》」の一文字によめたのである。  川は、霊峰|白山《はくさん》に源を発している。  現代では庄川の名で呼ばれているが、永禄のこのころにはその水が白いことから、大白川と呼ばれていたらしい。  この大白川の峡谷にそって、白川郷の集落がある。  平家の落武者が白川郷をひらいたという説が残っているが、真偽のほどはさだかではない。  また現代のはなしになるが、この白川郷に入るのには、飛騨高山からバスを乗りついで、三時間ほどかかり、四階建てから五階建ての合掌家屋が点在していることで有名になっている。  永禄年間のこのころは違う。  飛騨の白川郷はなんといっても金鉱、銀鉱にめぐまれていることで、天下に名をはせている。  資料によると、白川郷には七つの金銀鉱が分布していたという。  その金銀鉱がいかに豊かなものであったかは、寛正元年(一四六〇)白川郷に入ってきた内島|為氏《ためうじ》が、その五年後にはもう保木脇《ほきわき》にかえりぐも城を築いたことからも、十分に推察できる。  内島為氏が帰雲城を築いたのも、金銀鉱の開発、運輸、製錬など、保木脇がその集散地として、立地条件にめぐまれていたからであろう。  以来百年近くが過ぎ、内島の領主は二代めの雅氏にうつったが、鉱山《やま》は枯れることなく、金銀をもたらしてきたのである。鉱山の恵みがいかに潤沢であったかは、京都東山銀閣寺の銀がすべて白川郷より運ばれてきたことでも明らかであるし、その銀閣寺とまったく同じ観音殿を領内に建てたことからも、内島氏の得意さは推《お》して知るべしであろう。  このころ飛騨国においては、領主の三木氏と江馬一族との葛藤《かつとう》があり、外からは武田、上杉、織田の圧力が、ひしひしと感じられるようになっていた。  しかし白川郷だけは外部勢力はおろか、飛騨国領主の三木氏にたいしてさえも、侵略を許さず、この戦国の世にじつに九十年あまりも、平和を堅持してきたのである。  白川郷は北陸から舟便で送られてくる魚、野菜、主食類、衣料、薬などを購入し、また全国から流れこんでくる男たちを鉱夫に雇い入れ、一大交易地、鉱山地として、未曾有《みぞう》の繁栄に沸きかえっていた。  まさしく飛騨ゴールド・ラッシュ——  応仁の乱以来のうちつづく戦乱に疲れはて、故郷を、家をうしなった人たちにとって、白川郷は唯一の希望の地となっていき、いつしかこう呼ばれるようになった。  飛騨桃源郷……  その飛騨桃源郷に、今日も諸国から戦乱|流浪《るろう》のひとたちが、鉱夫に、あるいは兵士になろうとて流れ込んでくる。  そして彼らの落とす富を当てにして、遊び女《め》や、旅芸人たちもまた山ひだを抜けて、この地に入ってくるのである。 「鳥刺《とりさ》し、鉢叩《はちたた》き、ささらすり、放下《ほうか》師、歩き巫女《みこ》……まずはそのようなところでござろうかな」  そういったのは、幻阿弥《げんあみ》である。 「いうなれば、それがしのおなかまのようなもので」  幻阿弥は、伊賀を出自とする観阿弥、世阿弥の血をひく曲舞《くせまい》衆のらっぱで、諸国をさすらうときには、旅の猿楽師《さるがくし》を名のるのがつねであった。  べつに身分を偽《いつわ》っているわけではなく、諜報組織が確立されていない戦国の世にあっては、諸国を往来する旅芸人と、各地で情報収集にあたる忍びとはいわば一つ穴の貉《むじな》、そのちがいは定かではない。  幻阿弥は自分を伊賀の忍びであるとともに、嘘いつわりもなく旅の猿楽師であると思っていて、それだからこそ鳥刺し、鉢叩き、歩き巫女などの芸人は、そのおなかまでもあるのだ。  旅芸人といえば、贄《にえ》塔九郎も似たようなものであるかもしれない。  塔九郎は色あせた袖無し羽織をはおり、茶染めの革ばかまを穿《は》いた、いかにも旅の兵法者《ひようほうしや》といったいでたちなのだが、このころは兵法そのものが、いわば新しく生まれた芸のようなものとしか見なされていない。  芸人であればこそ、天下にその名を喧伝《けんでん》する必要があり、土子泥之助《ひじこどろのすけ》、根岸兎角《ねぎしとかく》、岩間小熊など、兵法者たちはそれぞれ自分の名前に趣向をこらしたのである。  贄《にえ》塔九郎は出雲《いずも》石上宮《いそかみのみや》から持ちだした十拳剣《とつかのつるぎ》を、こしらえをかえ、腰に収めている。それでかろうじて兵法者にも見えているのだが、その太刀がなければ、長旅にすりきれた単衣《ひとえ》、やぶれた編笠《あみがさ》の塔九郎、無頼《ぶらい》の野伏《のぶせ》りにも見えかねなかった。  塔九郎と幻阿弥のふたりは飛騨から白川郷に向かい、あおあおと茂る早春の山のなかに足をふみ入れて、卒塔婆《そとば》峠へと出た。  その卒塔婆峠からまたしばらく歩くと、庄川を数メートルほど下に見る崖縁に出て、そこに咲きほこっている桃の花のあまりの華やかさに、 「やあ、これは艶《えん》ではないか」  塔九郎は子供のように眼をかがやかせて、その場を動かなくなってしまった。  いや、塔九郎はもの心ついたときから、出雲の鉄穴《かんな》流し(砂鉄掘り)として働いてきて、ほとんど世間というものを知らない。その意味ではまさしく無垢《むく》な子供もおなじで、こうして幻阿弥といっしょに諸国をさすらい、様々《さまざま》なものを見るのが楽しくてならないらしい。  庄川を埋める桃の花に見とれてしまい、いつまでも動こうとしない塔九郎に、なかば呆《あき》れ、なかば苦笑しながらも、幻阿弥も草のうえに腰をおろして、春の眺めを楽しんでいるのである。  主従ふたり、といいたいところだが、塔九郎は主《あるじ》ではなく、幻阿弥もまた従者とはいえない。  贄《にえ》塔九郎は出雲の国に生まれ、十三歳になるまで何人もの出雲|巫女《みこ》たちの手によって育てられた。十三歳のときから七年間は、出雲|鉢屋《はちや》城の囚人となって、懲役場で鉄穴師《かんなじ》として砂鉄を掘る仕事にあたってきた。惨澹《さんたん》たる人生といえたろう。塔九郎は自分が何者で、どうして出雲の国に囚《とら》われの身になっているのか、それすら知らなかったのだ。  その塔九郎を鉄穴《かんな》流しの苦役から解きはなってくれたのは、美濃明智の住人で、明智十兵衛光秀という牢人だった。  明智光秀は、贄塔九郎はかんなながしであっても鉄穴流しではなく、神穴《かんな》流しの謂《いい》だといい、  ——贄塔九郎さまは闇の太守、出雲|斐伊《ひい》川で八岐《やまた》の大蛇《おろち》をお退治になった須佐之男命《すさのおのみこと》のお血すじであらせられる……  とさらに謎めいたことばをつけ加えたのである。  むろん塔九郎にはそれが何のことであるのかわかるはずもないが、光秀はあえて説明しようとはせず、ただ自分の宿星《ほし》をさがすために旅に出たらどうか、とそう勧めたのだ。  己が何者で、神穴《かんな》流しとはどのようなことであるのか、たしかにそれは塔九郎自身が血と汗をながして、求めるべきことであったかもしれない。  伊賀の幻阿弥は光秀に雇い入れられて、  ——曲舞《くせまい》の幻妙なわざをよくし、間忍《しのび》、物見、流言《ふれあるき》となにかと調法なおとこでござれば……  いわば宿星《ほし》をさがす道しるべとして、塔九郎に貸し与えられた者であったのだ。  したがって塔九郎と幻阿弥のあいだに主従関係はない。もともと忍者は間諜《かんちよう》、謀略の術を請《う》け負う技術者であり、食禄によって召し抱えられるのをいさぎよしとしなかった。  それでもやはり他人にたいする好悪の感情はある。  よい、おひとであるわい。  幻阿弥は塔九郎に好意を持っていた。  なによりも塔九郎の笑顔がいい。顔を融《と》けるように崩《くず》すと、わらべのように無垢《むく》な表情になり、たいていの者はおのずと好意を持ってしまうのだ。  決して幸せな境涯とはいえず、それどころか生まれながらの囚人で、おのれの母親の顔も知らない、この世にこれほど不幸な身のうえもあるまいと思われるのに、どうしてこんなにも無邪気な笑顔を浮かべていられるのか、と幻阿弥はそのことがふしぎに感じられるほどであった。  いまも渓谷の桃の花に見とれている塔九郎は、やはり幼児のように無邪気で、一点の曇りもない眼の色をしているのだ。  桃の花びらが舞い、雪溶け水の澄《す》みきった流れのなかに、吸い込まれるように消えていってしまう。  咲きみだれる桃の花に、渓流はあわくかすみがかかったようになっていた。  そのかすみをふわふわと踏むようにして、鳥刺し、鉢叩き、放下師などの旅芸人の一行が、にぎやかに庄川の岸縁を歩いてきたのだった。 「ご機嫌よろしゅう」  一行の先頭にたっていたささらすりの男が声をかけてきて、 「見事な桃の花でござりまするなあ」 「はい、まことにまなこ冥加《みようが》なことで」  幻阿弥もさすがに如才がない。  腰をかがめ、そうして微笑すると、そのよく陽に灼けた肌に笑いじわが深くきざまれ、いかにも世慣れた旅の猿楽師としか見えないのである。 「おさきにご無礼をいたします」  旅芸人たちが通りすぎていくと、おなじほうから今度は遊び女《め》らしいおんなが二人、背中にわらくくりの荷を乗せた馬を引きながら、しずしずとやってくる。  一見、二人とも歩き巫女のような装束をしているが、ひとりのおんなはどうした趣向からか、貴婦人のように、銀糸で縫とりした白いかずきを頭からかぶっていた。  さきの旅芸人も、このおんなたちも、金銀でにぎわっている白川郷をあてにして、山のなかまでふみ入ってきたのにちがいない。  それを見て、 「いうなれば、それがしのおなかまのようなもので」  幻阿弥の前述のせりふとなったのである。  馬は、むろん駄馬である。  年老いているし、疲れはてている。荷は重いし、なにより雪どけで庄川の水かさが増していた。  それやこれやでつむじをまげてしまったものらしく、おんながどんなに綱を引いても、河原の土を掻《か》き、首をふるばかりで、馬はしきりに後《あと》ずさりをしたがり、いっこうに前へ進もうとしない。 「これ、そのようにだだをこねるものではありませぬ」  おんなはしきりになだめるのだが、いよいよ馬は興奮し、いっこうに埒《らち》があきそうになかった。  もうひとりのかずきを着たおんなは、最初から馬を御《ぎよ》することなどあきらめているのか、離れてこれを見ているだけで、手出しをしようとさえしない。  駄馬とはいっても、やはり馬、いささかおんなたちの手には余りそうであった。  馬の蹄《ひづめ》にかきみだされて、河原に降りしだく桃の花びらが、また舞いあがる。 「どれ、助《すけ》にゆこうか」  塔九郎はそうつぶやくと、やおら崖のなだらかな斜面を降りていき、すたすたとおんなたちのほうに歩いていった。  ふりかえったおんなを、手ぶりで脇にどかせると、塔九郎はそのまま馬のほうに歩み寄っていき、ひょいと腰をかがめ、いとも無造作に前脚二本を肩にかつぎ上げて、 「このさきへ参ればよろしいのか」  重たげな様子も見せずに、ゆっくりと歩きはじめた。  前脚をとられてしまってはどうしようもなく、馬は塔九郎に背負われたかたちで、よたよたと二本脚で歩いていった。  塔九郎のあまりの怪力に、おんなたちはしばらく呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいたが、やがてわれにかえったらしく、慌《あわ》ててその後を追いはじめた。  さきほどまで馬を引いていたおんなの、裾《すそ》をかるくつまむようにして走っていくその姿が、桃色のかすみのような視界のなかに、彼女自身大ぶりの花ででもあるかのように、艶《あで》やかに映ったことであった。  おんなたちが走り去っていったあと、ただ桃の花びらが舞い、水の岩を噛む音がきこえてくるのみで、渓谷はしんと静まりかえっている。桃の花の咲きほこる渓谷は、艶《えん》とも、妖ともいえる光景であったが、その静けさにはなにか底なしの穴を覗《のぞ》きこむような、奇妙にうそさむいものが感じられた。  馬の蹄《ひづめ》にひとしきり舞った桃の花びらが、ゆっくりと河原のうえに落ちていき、やがてそこに人影がもうろうと浮かびあがった。  幻阿弥である。  幻阿弥はおのれも河原の泥の一塊《ひとくれ》と化したように、しばらく凝然《ぎようぜん》とうずくまり、動こうとはしなかったが、そのうちに眼のまえに転がっている石に手を伸ばすと、 「はて……」  首をかしげた。  幻阿弥の指はなにか黒い粉のようなもので汚れていた。どうやら馬が暴れたときに、背中の荷わらからこぼれ落ちたものであるらしいのだが、それは幻阿弥が漠然と予想していたような薬のたぐいではなく、硫黄《いおう》と硝薬《しようやく》を混《ま》ぜあわせてつくった、要するに火薬であったのだ。  なにゆえ遊び女《め》が硝薬などを持ちはこばねばならぬのか?  幻阿弥はこの疑問に首をひねっている。 「おい」  ふいに背後から声がきこえてきた。  それと同時にひたひたと地に吸いつくような跫音《あしおと》が迫ってきた。  幻阿弥ほどのおとこが背後に忍び寄ってきた者の気配に気がつきもしなかったのは、不覚といえば不覚だったが、それを恥じるよりもまず、相手のなみなみならぬ修練の冴《さ》えを恐れるべきであったろう。  幻阿弥はふりかえろうとはしなかった。  背後の殺気には下手にふりかえりでもしようものなら、その一瞬の隙《すき》をついて襲いかかってくるにちがいない、と思わせる凄《すさま》じいものがあったし、そうなればいかな幻阿弥でも逃がれる術《すべ》はない。  ふりかえらずに、幻阿弥は、膝をかがめ、身を撓《たわ》めざま、大きく飛んで、宙を翔《かけ》のぼっていった。  くるりと前転したとき、桃の花びらが舞い散るなか、白いかずきがなにか意志あるもののごとく、ゆっくりと宙をただよっているのが見えた。  それがどういうことなのかわからぬまま、桃の花があまりに妖艶にすぎ、一瞬、かいま見た異世界の幻影であったかのようにも感じられ、  ああ、奇麗《きれい》だ。  この場合に、幻阿弥はそんなことを思っている。  次の瞬間、水しぶきをあげて、幻阿弥の体は河のなかに落ちていた。     二  まるでバビロンのにぎわいのようではないか。  ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスはその書簡において、織田信長の新興都市「岐阜」をそう評している。  各国の商人隊が塩や布など様々なものを馬の背に積んで集まり、あきないをし、あるいは喧嘩をし、賭博をし、岐阜の町がわきかえっているというのだ。  それはこの物語よりも何年か後《のち》のことであり、いまはまだ岐阜城は稲葉山城であり、信長はそれを攻《せ》めあぐねているのだが、想像をたくましくして、おなじルイス・フロイスがこの飛騨白川郷を見たら、それをどう評するであろうか、考えてみたくなる。  そう考えてみたくなるほど、この飛騨白川郷はにぎわっている。  むろん山あいの郷のこととて、人口は二千人たらず、のちの岐阜のにぎわいにはおよぶべくもない。  ただし各国の商人隊が集まってくること、喧嘩さわぎ、賭博の活気、芸人とおんなたちのさんざめきは決して、のちの岐阜にもひけをとらない。  美濃、三河の商人たちが山道を抜けて入ってくるばかりではなく、庄川に舟を乗せ、越中、加賀あたりの商人も、陶磁器などを運びこんでくる。いや、それどころか売られてくるおんなたちのなかには、京洛の公卿《くげ》の娘さえ混じっているという。  それに加えて、諸国を食いつめたおとこたちが、鉱山に糧《かて》を得んとして、この白川郷に集まってくるのだ。  おそらく日本においては、まだこの白川郷一国のみであろうが、交易、あきないの対価には、すべて金銀がこれに当てられている。  白川郷に産出する金銀は、現世のギラギラとした欲望に裏打ちされて、いやがおうにも妖しい光芒を帯びていき、人々を魅了してやまないかのようだ。  まるでソドムのように堕落しているではないか。  ルイス・フロイスがこのころの白川郷を見れば、あるいはこうした感慨を抱《いだ》くかもしれない。  白川郷は庄川にいくつも橋をわたして、さほど広くもないかえりぐも城の城下に、交易の市が立ち、娼家があり、旅籠《はたご》がたちならんでいる。桃の花が白川郷を埋めつくし、夜ともなればつじの四隅に焚《た》かれる大|篝《かがり》が、あかあかと町を浮かびあがらせる。  山ひだにわずかながら田の面《も》もあり、遠くには白川|正蓮寺《しようれんじ》の塔なども見えるのだが、いかんせんおとこたちは色と欲とにうつつをぬかし、畑仕事や仏法などを想いだそうともしない。  まさに飛騨桃源郷、ソドム白川郷、この戦国の世に九十余年の平和を保ち、繁栄はきわまって、爛熟《らんじゆく》し、なお人々の欲望はとどまるところを知らず——そして、その暗部には淫蕩《いんとう》と頽廃《たいはい》のかげをよどませているのだ。  むろんこの町の人々が知るよしもないことであったが、飛騨白川郷にはソドムの都とおなじ運命が待ちかまえていたのである。 「この者、不審《ふしん》」  と、槍組の足軽数人をひきつれた武士がわめいた。  その声と同時に、足軽たちは槍をさかさまに構えて、扇をひらくようにして、塔九郎をとりまいた。  難を避けようと、旅人、町民たちはあわてて軒端《のきば》に身を寄せる。  庄川の河原へとびこむ者もいた。  うらうらと照る春の日差しのなかに、川の水がきらめいている。 「痴《し》れごとを吐《ぬ》かすな」  また足軽大将がわめいて、 「わ、わしをなぶるか」 「べつになぶってはおらぬ」  塔九郎は平然と落ちついている。  というより、足軽大将が怒りだしたのをいっこうに意に介していない様子だ。春風|駘蕩《たいとう》、びんの毛をそよがせて、大きな子供のように邪気のない顔をしながら、ただそこに立ちつくしている。 「贄《にえ》塔九郎とやら、うぬは幾つになった」 「としのことでござるか」 「そうだ」 「はて」  塔九郎は大まじめな表情で、右手の指を折り、 「急にそのように申されても、なにぶんとしのことなどことさら考えたこともなく」 「ええい」  足軽大将はいらだち、 「おとこにはなっておろうが」  男になるとは、要するに元服の謂《いい》であろうが、これは嘲弄《ちようろう》にほかならず、人なみ以上にたくましい贄塔九郎、だれの眼にも疾《とう》にういこうぶりを終えたように見えるはずなのに、 「まずは」  塔九郎が悪びれもせず、そう嬉しそうにうなずいたのには、町民たちのあいだから笑い声が洩れきこえた。  しかし、これをしも自分にたいする侮辱と受けとったらしく、足軽大将はますます怒りの色をあらわにして、 「そのようなとしになるおとこが、おのれが何者であるかもわきまえぬと申すか」 「左様」 「おのれの身分がわからぬというのか」 「いかにも」  塔九郎はまたうなずいた。 「愚弄《ぐろう》するか」  足軽大将は怒りで顔を真っ赤に染め、 「この者、ありようは武田の間者《かんじや》とみた。からめとれ」  下知《げち》がくだされると、わっと足軽たちは声をあげ、さか手に持った槍で、塔九郎に打ちかかっていった。  塔九郎はぶよを払いのけるように、右に、左に槍をかわしながら、 「これは迷惑な……武田の間者とはとんだいいがかりを仰せられるものよ」  声をはりあげたが、その大声ほどには動転もしていなければ、緊張もしていないようだった。  鉄穴《かんな》流しの懲役場で、ひっきりなしに頭のうえに崩れ落ちてくる崖土をかわしつづけているうちに、ほとんど超人的ともいえる敏捷《びんしよう》性が、いつのまにか培《つちか》われていた。塔九郎には足軽の棒術などなにほどのこともない。ひらり、ひらりと難なく身をかわし、逆に足軽たちのほうが力まかせに打ちかかったおのれの槍にふりまわされ、息を荒くし、よたよたと泳いでいるのだ。  とんだいいがかりだ、と塔九郎はまた抗議したが、これは彼のほうがよくない。  たしかに塔九郎は自分が何者であるのかわからないまま、おのれの宿星《ほし》を求めて、諸国をさすらっている。しかし、それをそのまま役人に伝えたところで通用するはずもなく、兵法修行の者、とでもいっておけば、相手も素直に納得したものを、わざわざことを荒だてたのでは、無頓着というより、もはや愚直とさえ呼びたくなる。  自己同一性《アイデンテイテイ》という便利な言葉がある。  現代人なら、さしずめ自己同一性《アイデンテイテイ》をもとめて、とでも表現するところであろうが、なにぶん塔九郎は永禄の人間で、しかも語彙《ごい》がすくなく、自分が何者であるかわからない、としかおのれをいいあらわす術《すべ》を知らなかったようである。  いうなれば自業自得であるが、塔九郎は口でいうほど、この騒ぎを迷惑には思っていないらしく、むしろ楽しんでいるふしさえあった。 「迷惑でござる、迷惑でござる」  塔九郎は歌うようにそういいながら、打ちかかる足軽たちの隙《すき》を縫《ぬ》って、ひらひらと身をかわし、棒をはらいのけ、さんざん遊んでいる。  それまで掛かりあうのを恐れて、遠まきにこの騒ぎを見ていた町民たちも、塔九郎の子供が悪戯《いたずら》をしかけるようなふるまいに、やがてクスクスと笑いはじめた。  足軽大将は激怒して、 「ええい、かまわぬ、手に余るようであれば討ちとれ」  ぎらりと太刀をひきぬいた。  足軽たちも大将にならい、それまで逆さにしていた槍をすぐさま持ちかえ、塔九郎につきつけた。  さすがに塔九郎もいささかやりすぎたと思ったのか、悪戯を叱られた腕白小僧のように、ばつの悪そうな顔になった。  しかしもはや謝るのにも、逃げるのにも遅すぎる。  じりっじりっと槍ぶすまを押してくる足軽たちをまえにして、なにか塔九郎は途方にくれたような表情で後ずさっていった。  しかしそれも川岸まで追いつめられて、足をとめざるをえなくなる。  町民たちもまたしんと静まりかえり、固唾《かたず》を呑むようにして、ことのなりゆきを見つめている。 「もはや逃げられぬぞ」  足軽大将は嘲笑するように、歯を剥《む》きだして、 「観念せよや」 「お待ちくださりませ」  そのとき声がかかり、町人たちのあいだから二人のおんなが進み出てきた。  塔九郎が山中で出会った二人のおんなたちである。うしろに立っているおんなのほうは、あいかわらず銀糸でふちどったかずきをかぶっていた。  歩き巫女《みこ》の白装束を着ていても、どこか遊び女《め》のような艶《あで》やかさをただよわせているのは、占いやおはらいをするよりも、夜の伽《とぎ》をするほうが生業《なりわい》だからかもしれない。 「待てというたはうぬらか」  足軽大将はそうわめいたのに、 「はい」  おんなはにこりと笑った。  小麦色の肌に、大きく、切れ長な眼がいきいきと輝やいていて、歩き巫女には似つかわしくないとさえ思われるような、溌剌《はつらつ》とした健康美にあふれている。長く、黒いぬれ色の髪に、赤い捲《ま》き毛が一すじだけ流れているのが、とりわけ人目を惹《ひ》いた。 「なにゆえあって、われらのじゃまをいたすのだ」 「そのおとこ」  と、おんなはいった。 「わたくしの連れでございます」 「うぬの連れだと」 「はい」 「小賢《こざか》しい、その場しのぎのいつわりを申すな」 「なにを仰せられます。いつわりだなどと滅相《めつそう》もない」 「嘘ではないと申すか」 「はい」  おんなはまたにこりと笑った。  足軽大将はちらりと贄《にえ》塔九郎に視線を走らせた。  おんなの言葉を肯定するでもなく、塔九郎はただその場に立ちつくしている。実のところ、思いもかけないおんなの言葉にあっけにとられているのだが、それが足軽大将の眼にはなんともふてぶてしいものに映ったはずである。 「この者がうぬらの連れであるなら、なにゆえにそれを隠そうとしているのだ」 「このおとこ、わが身を恥じておりまする」 「恥じている?」 「はい」 「なにをそのように恥じているのだ」  足軽大将がいらだたしげにそう問いをかさねるのに、 「わたくしとおなじ身のうえでござれば」  もうひとりの、それまでただ黙しているばかりだったおんなが、ふいにそういい、足軽たちの前に足を進めた。  そしてゆっくりとかずきをとり、その顔をはじめて人眼にさらしたのである。  それと同時に、人々のあいだに声にならないどよめきが走っていった。  おんなではなく、おとこであった。まだ若い。彫りのふかい、落ちくぼんだ眼窩《がんか》に、眼光が冷たく冴えていた。青白い顔に、胸でも患《わずら》っているのか、ただ唇だけがぐみのように赤かった。 「わたくしは名を白拍子《しらびようし》と申しまする」  とおとこが奇妙になまめかしい声でいった。 「その者は、わたくしとおなじ稚児若衆《ちごわかしゆう》であるのを、恥じているのでござりましょう」     三 親おとせば子もおとし 兄おとせば弟もつづく 主おとせば家の子郎党おとしけり 馬には人 人には馬 おちかさなりおちかさなり  旅宿の二階で、おんなが舞っている。  装束は歩き巫女だが、巫女舞いではなく、歌も今様《いまよう》(流行歌)ではなく、『平家物語』の一節を曲に乗せたものだ。  越中|倶利伽羅《くりから》峠の決戦に敗れた平家の落武者が、この白川郷に隠れ住んだという伝説が残っており、そのおんななりにこの地で芸を見せるのに、あれこれと工夫を凝《こ》らしてきたにちがいない。  陽が、落ちはじめている。  窓のひさしは赤く染まり、外に咲きひろがっている桃の木に夕陽が映《は》えて、その花びら一枚一枚がしたたるように美しい。  板敷の部屋はうす暗く、赤く燃えあがっているような窓の外ときわだった対照をなし、舞いつづけるおんなの姿を橙《だいだい》色の輝線で浮かびあがらせていた。  おんなが舞いおわると、 「やあ、これは艶《あで》やかな」  同宿の芸人たちが手を打ち鳴らし、はやしたてた。 「ご返礼に、このほうも芸を見せねばなるまいて」  おんなたちと前後するようにして、白川郷に入ってきたあのささらすりのおとこが立ちあがり、手にしている簓《ささら》を陽気に鳴らしはじめた。  ささらこという刻み目をつけた長い棒に、簓《ささら》をすって、田楽舞いなどにうち興じる、この永禄の世にあっても、いささか時代おくれで、やかましいばかりの、下卑《げび》た芸といえそうであった。  ささらすりのおとこが尻を突きだすようにして、おどるのを見て、いっしょに旅をしている鉢叩き、鳥刺し、放下師などが、鉦《かね》をたたいて、やんやと囃《はや》しはじめた。 「これはすこしうるさすぎる」  そのさわぎを隣りの間にききながら、白拍子《しらびようし》は苦笑し、 「迷惑なはなしではおざりまするが、これも酒の席のにぎやかし」  板敷の部屋は暗く、もう手燭《てしよく》のあかりが点《とも》されている。  そのあかりに揺らめきながら、塔九郎はただ黙々と徳利を傾け、ほしざかなを齧《かじ》っている。 「お前様は」  と、白拍子が訊《き》いた。 「口をきくのはお嫌いか」 「そうでもない」  塔九郎はにこりと笑った。 「それではなにゆえにそのように口をとざしていらっしゃるので」 「おれは考えている」 「ほう」 「そうさ」  塔九郎はうなずき、一息にさかずきを干した。 「おれは考えているのだ」 「はて、なにを」 「考えているというのか」 「はい」 「おぬしらがなにゆえおれを助けてくれたのか、そのわけを考えているのさ」 「なにを埒《らち》もないことを」  白拍子はほほ笑みを浮かべて、 「おなじ空を旅している者同士、相身たがいでござりましょうものを」 「そうしたものでもなかろうよ」 「はて、異《い》なことを仰せられる……荷馬がだだをこねて、わたくしたちがほとほと困《こう》じはてていたとき、お前様は助けてくだされたではござりませぬか」 「そのことよ」  塔九郎はまた子供のような開《あ》けっぴろげな笑いを浮かべ、 「白拍子殿、おぬしほどの業《わざ》があれば、あのような駄馬一頭、いかようにもあやつることができたのではないか」 「わたくしに業などと……」 「お隠しあるな、いや、隠しても無駄でござるよ、白拍子殿」  一瞬、塔九郎の眼がするどく光り、 「おれがどのように荷馬をさばくのか、それを見さだめたかったのであろうが」 「なにゆえに、わたくしがそのようなことを」 「だからさ」 「だから?」 「おれは先ほどからそれを考えているのだ」  塔九郎はからになった徳利を傾け、掌《て》の酒を舐《な》めた。  どうやらささらすりの踊りに、鉢叩きが加わったらしく、隣室のさわぎがいっそう賑《にぎ》やかなものになった。 「わたり芸人たちのなんとくったくなげに見ゆることよ」  白拍子は口のなかでそうつぶやくと、 「わたくしたち芸人はしょせんは人外の余計者、小唄を歌い、猿楽を舞っても、つまりは賤民《せんみん》のあさましいなりわい……それがあのようにくったくなげにふるまえるのも、この白川郷にはおかねがあふれ、うれしや、賤民たちも飢えを案ぜずともよいからでありましょう、まさに飛騨桃源郷なればこそ」 「結構なはなしではないか」 「それがわたくしには我慢がならぬ」 「…………」 「憎いのだ」  塔九郎をひたと見すえた白拍子の眼に、青く凄絶《せいぜつ》な光が宿っていた。  憎いのだ、と吐き捨てるようにいったとき、それまでおんなのように優しかった白拍子の顔が、ふいにおもがわりして見えた。白磁のような肌に、うすく血がさしたが、かえってそれが白拍子の顔に、燐《りん》のような蒼みを加えたようだった。 「考えてもみよや」  白拍子はいうのである。 「内島《うちがしま》一族の為氏《ためうじ》が白川村|保木脇《ほきわき》にかえりぐも城を築いたのは寛正年間のこと、いまから九十年あまりもまえのことだそうな。飛騨桃源郷に、白川黄金郷……おお、気味わるや、九十年ものあいだ、この白川郷は惰眠《だみん》と安逸《あんいつ》を貪《むさぼ》ってきて、その血もよどみ、饐《す》えはてておりましょうぞ」 「白拍子殿には白川郷に戦乱が絶えて久しいのがお気に召《め》さぬのかな」 「さよう」 「乱《らん》がご所望か」 「いかにも所望じゃ」  白拍子は空《から》のさかずきを両手でささげ持つようにして、それを飲みほすしぐさをして、 「これ、このとおり、乱が欲しゅうて欲しゅうてなりませぬ。九十余年もの平和、考えただけでも、この身に虫ずの走る思いがいたしまする。万物流転《ばんぶつるてん》、盛者《じようしや》必衰、それがこの世のことわりではありませぬか。修羅の世にあって、おのれのみがそのことわりの埒外《らちがい》にぬくぬくとおさまりかえるは、いかにも醜い」 「ほう、醜いか」 「花は枯れ、散ればこそのはなではござりますまいか、枯れもせで、散りもせずば、もはや花とはいえますまい……飛騨桃源郷、その桃の花がいかに美しく見えようと、わたくしの眼にはただもうそれは醜く見えるばかり、なにやら腐臭さえただよってくるようではござりませぬか」  白拍子の顔が、燭台の暈光《うんこう》のなかに妖しくゆらぎ、 「領主の内島一族にしてからが、血も饐《す》えはてて、腐臭をただよわせているようでおざりまする。内島為氏が白川村に入ってきたのは、いまから九十余年もまえのこと、それがなんと数年まえまで、かえりぐも城に君臨し、百歳もの長命にいたったというではありませぬか、父のあまりに長き支配に畏縮《いしゆく》して、その性《さが》いびつになりはてたか、現城主の雅氏《まさうじ》はかえりぐも城慈照寺の奥にとじこもったまま、声明《しようみよう》を唱え、梵唄《ぼんばい》をうたい、人まえに顔を出そうともせず、その子|氏理《うじまさ》によってかろうじてまつりごとが保《たも》たれているとやら」 「かえりぐも城慈照寺……」 「いまはもうあいつぐ戦《いく》さに荒れはてているとのことでござりまするが、京都東山の慈照寺、あの銀はことごとくこの白川郷より運びだしたもので、高慢にも内島|為氏《ためうじ》は公方様の慈照寺とおなじものを己の領内につくり、それをかえりぐも城慈照寺と呼んでいるのでござりまする。笑止なり。その庭は極楽浄土をうつしとったもので、そこで雅氏は経を誦《よ》み、鉦《かね》をたたいて、沙弥《しやみ》のような日々《ひび》を過ごしているそうな……これもまた枯れもせで、散りもせぬ醜いはなではござりますまいか」 「なるほど」  塔九郎は笑い、 「これで得心《とくしん》がいき申した」 「なんの得心が?」 「白拍子殿のそのいでたちがでござるよ。稚児《ちご》とも思われぬのに、なにゆえにそのような姿をしているのか、これまでどうにも合点《がてん》がゆかなんだが」 「若いおんなはなによりも美しいが」  白拍子はなにか呪文をとなえるようにつぶやいて、 「その美しさは容色のおとろえをすでにそのうちに孕《はら》み、蜉蝣《かげろう》のごとくはかなくうつろうものゆえに、なおさら光輝を増すのではありますまいか。わたくしがおんなを装うのも、美にして醜、醜にして美、枯れるゆえの美しさをわが身に纏《まと》いたいがため」 「されば」  塔九郎は白拍子の眼を凝視し、 「飛騨桃源郷、内島一族、枯れもせず、散ることさえも知らぬこのはなを、白拍子殿、どうしようとお考えか」 「枯らしてやればよろしいのではござりませぬか。散らしてやればよろしかろう」 「どのようにして」 「…………」  白拍子はさかずきの底に残っていたにごり酒に、人差し指を入れ、膝をわずかにずらすようにして、一文字、板敷きのうえに書いたのである。   滅  塔九郎はその字を見、顔をあげ、燭台のあかりに隈取《くまど》られている白拍子の顔をしばらく見つめていた。やがて、その唇にうすく笑いを掃《は》いて、 「白拍子殿はいずれかの間者《かんじや》にてあらせられるようだが」  と訊《き》いた。 「そのような秘事《ひめごと》をそれがしごとき牢人にあかしたのでは、あとで悔《く》やむことになりはせぬか」 「いかに小領主とはいえ、かえりぐも城の内島一族、わたくし一人で枯らしてやるのは、いささか手にあまる。お前様の業《わざ》をみこんで願うのだが、助力を乞いたい。首尾よくことが成就《じようじゆ》したあかつきには、報奨は思うがままでありまするぞ」  口調さえも一変した白拍子を、塔九郎はおもしろそうに見ながら、 「ほう、報奨は思うがままか。よほど豪気な雇い主であるようだ」 「それは豪気にもなりましょう。内島一族を斃《たお》し、白川郷を手中に収めれば、山より産ずる金銀をことごとくわがものにできる……それを思えば、わたくしたちに下《くだ》される報奨などたかの知れたものでござりましょう」  白拍子は冷たい微笑を浮かべ、 「わたくしがこのことを請《う》け負う気になったのは、その報奨もさることながら、枯れることを拒《こば》み、散ることを忘れた飛騨桃源郷、そこを他国とおなじ修羅の地にかえ、思うがままま血と炎に酔いしれてみたかったからでござりまするよ」  隣室からはもはや音曲《おんぎよく》の調べは聞こえてこず、芸人たちは酒盛りに移ったらしく、酔っただみ声、笑い声がかさなりあい、いっそう賑《にぎ》やかになっていた。その喧噪《けんそう》のなかで、血と炎に酔いしれてみたい、という白拍子の声は、なにか塔九郎の耳にしんと染《し》みこむようにきこえたのである。 「なるほど」  ややあって、塔九郎がうなずいて、 「ところで白拍子殿、そなたを雇うているのはだれであるのか、それはおはなし下されるのであろうな」 「合力を快くお引き受けいただけるのであれば」 「いまはまだ」  と塔九郎は苦笑し、 「あかしては貰えぬか」 「勿体《もつたい》ぶるほどのこともござりますまいが、なにさまそのおひとには神仏のご冥護《みようご》があり、うかつに名をあかせば、このほうに神罰がくだされるやもしれず」  白拍子はどこまで本気なのか、そんなことをいい、にんまりと笑った。 「ほう、越後の上杉がやはりおのれのことを軍神の申し子と心得、地蔵、帝釈《たいしやく》、妙見の加護を願っているというが」 「そのようにかまをかけずとも、しゃべりましょうものに」  白拍子はあいかわらず笑いを浮かべて、 「そのおひとに神仏のご冥護があるというのも、おろちをお退治になられたことがあるゆえでござりましてな」 「おろちを」 「左様、さながら須佐之男命《すさのおのみこと》でござりまするよ」 「…………」  塔九郎ほどのおとこが、とっさに言葉が出なかったのは、須佐之男命の血すじと称せられた自分のことを、この白拍子があてこすっているのではないか、と考えたからだった。  しかし、どうやらそれは塔九郎の思いすごしであったらしく、 「そのおひとがいまだ若年のおり、近在のあまが池という池に大蛇《おろち》が出るといううわさがおざりました」  白拍子は空の徳利を取り、そのくちに箸《はし》をさして、さかさにし、カラカラとまわしながら、言葉をつづけた。 「そのおひとはおろちがいるのをたしかめんと、下帯ひとつの姿になり、抜身の脇差を口にくわえて、あまが池に飛び込んだとのことでござりまする。大蛇は見当たらなんだといわれておりまするが、一説にはそのおひとが退治たのだとも」 「なるほど、それで須佐之男命であるか」 「はい」 「いわぬか、白拍子殿、そのおひとの名は?」 「織田信長様」  徳利が独楽《こま》のように舞い、天井まで登っていき、それがぽとり、と床に落ちた。  もう白拍子の姿はどこにも見えない。  塔九郎はしばらく端座していたが、 「あじな芸を見せる」  そう口のなかでつぶやくと、そのままごろりと肘《ひじ》まくらをし、板敷の床のうえに横になった。  一呼吸か二呼吸、もうそれで塔九郎はやすらかな寝息をたてていた。  蛇のはなしであるため、文字どおりの蛇足《だそく》ということになりそうだが、信長がおろち退治をしたあたりの地名は、明治になり、�山田�の名で呼ばれるようになる。  もちろん偶然であろうが、あるいはなにか時間を超越した、歴史の暗合とでもいうべきようなものが、そこに働いていたのかもしれない。  すなわち、やまだのおろち——。     四  桃の花のかおりがする。  闇のなかに桃の花が咲きほこるのを見たような気がし、塔九郎はふと眼を覚《さ》ました。  桃の花を見たような気がしたのは夢だったが、そのかおりをかいだのは夢ではない。  闇のなかで、さらさらときぬずれの音がきこえている。おんなが衣を脱《ぬ》いでいるらしく、帯をしごく音が、耳に心地よくつたわってきた。桃のかおりは、おんなの体臭か、あるいは身にたきこめた香のかおりででもあるのかもしれない。  いつのまにか塔九郎の体にはかいどりがかけられている。  そのかいどりに鼻まで埋めて、ぬくぬくとよこたわりながら、塔九郎はきぬずれの音に耳を傾けていた。  おんなが、塔九郎のよこに身をすべらせてきた。  桃の花のかおりがいっそう強く、官能的なものになったように感じられる。  おんなはわずかに汗ばんでいる、まろやかな裸の乳房を、塔九郎の背に押しつけるようにして、 「もうし」  あえかなる吐息をささやきかけてきた。 「ああ」  塔九郎はうなずく。 「おめざめでござりまするか」 「起きているよ」  塔九郎は微笑を含んだ声で、 「白拍子《しらびようし》殿とごいっしょに旅をなされているひめごりょうにん殿であらせられるか」 「ひめごりょうにんだなどと滅相《めつそう》もない、わたくしは身分いやしき、ただの遊び女《め》でござりまする」 「そうかな」  塔九郎はさからわない。 「まあ、そういうことにしておいてもよかろうよ」 「白拍子殿よりあらましはうかがいました。白拍子殿のくわだてに手をお貸しいただけるとか、馬をもひしぐ豪傑の贄《にえ》塔九郎様、そのご助力あらば、執《しつ》金剛神がお味方についたかとも思われ、なにより心たのもしい気がいたしまする」 「おれをすこし買いかぶりすぎている」  と塔九郎はいい、 「それにおれはまだ白拍子殿に合力すると、はっきり約定《やくじよう》をかわしたわけではない」 「ひがごとを仰せられまするな。白拍子殿はあのようによろこんでおられますものを」 「白拍子というおとこ、うつろい、かげろいゆくものこそが、この世のまことだと思うておるそうな。なにもかもが虚仮《こけ》であると念じ、そのためにおとこの姿さえ捨てている。あのようなおとこがなにをよろこび、なにを嘆くか、わかるものかよ」 「白拍子殿をお信じにならぬのか」 「信じぬさ」  塔九郎はかいどりの下で身を反転させ、おんなを抱きしめると、 「おれは、おれの宿星《ほし》を信じる。おのれの宿星を知りたいのだ。内島のご領主様を弑《しい》し奉るのがおれのほしだというなら、それにしたがわずばなるまいよ」 「わたくしには、あなたさまのべつの宿星も見えまする」 「ほう、どんな宿星かね」 「わたくしをお抱きあそばすという宿星《ほし》が」 「それは」  塔九郎は笑い、 「まことに得がたい宿星ではないか」 「存分に、お食べなされてくださりませ」 「なるほど」  胸に顔をよせてくるおんなの髪を、塔九郎は優しく愛撫しながら、 「あしびとはよういうた」  おんながぎくりと身をこわばらせるのが、はっきりと腕《かいな》に感じられた。それをいよいよ強く抱きしめながら、 「馬さえも酔わせるほどの毒気を持つゆえに、馬酔木《あしび》にはその字があてられたという。夢違《ゆめちがえ》観音を崇《あが》めたてまつり、念をとなえて、夢をあやつるたいし一族の夢ごぜ殿には、まことに似つかわしい名ではあるまいか。いや、おれの精神《こころ》に夢ごぜがとり憑《つ》いているというはなしは、かねてより聞いてはいたが、まさにわが身の果報、こうまで美しい女性《によしよう》とは思いもよらなんだ」 「…………」  塔九郎の腕のなかで、おんなは身をこわばらせ、しばらく沈黙していたが、やがてクスクスと笑いはじめた。こわばりを溶《と》き、おんなはのびやかに身をよこたえたが、そのくせからだのどこか深部に強靱《きようじん》な芯《しん》のようなものを感じさせた。 「世辞とわかってはいても、美しいと誉《ほ》めそやされて、わるい気のするおなごはいますまい」 「なんの世辞でなどあるものか、そなたは美しい。毒気を持つゆえに、なおさら馬酔木《あしび》は美しゅう咲きほこるというぞ」 「どくばなと知りながら、なにゆえわたくしをお近づけになられました」 「おれは無類のおんな好きゆえ、な……それに」  塔九郎はやおらおんなの頸《くび》に両手をかけ、 「いささか知りたいこともある」 「なにをお知りになられたいのでござりまするか」  頸に手をかけられながらも、馬酔木《あしび》の声にはすこしも動揺が感じられない。その息遣いもまったく乱れていなかった。 「白拍子のことさ」 「白拍子殿?」 「おれもよくは知らぬが、常陸《ひたち》の鹿島神宮は武甕槌命《たけみかづちのみこと》を主祭神とし、その社家《しやけ》はこのころ世にきこえるようになった鹿島刀法とやらのみなもとであるそうな。兵法者なるもの好きどもが刀法の奥義《おうぎ》をさとりたい一念で、その鹿島神宮に参籠《さんろう》するのが習わしとなっているそうであるが、なあ、夢ごぜ殿よ、過ぐる日、そこに籠《こも》っていた幾人かの兵法者に、贄《にえ》塔九郎を討つべし、という託宣《たくせん》がくだされたというのだ。おどろくべし、おれを斃《たお》した者には、武甕槌命《たけみかづちのみこと》の加護があり、その刀術は神技に達する、と兵法者どもは心底よりそう信じているらしい」 「さすれば贄《にえ》塔九郎様はまこと神仏のにえであらせられましたか。鹿島神宮は当代随一の兵法者、かの剣聖塚原|卜伝《ぼくでん》様がお出になられた社家とも聞きおよんでおりまする。鹿島の兵法者たちにつけねらわれるは、つくづくお気の毒ではございまするが」  馬酔木《あしび》はあまり気の毒でもなさそうな口調でそういい、 「それが、白拍子殿となにか?」 「あの者もおれを斃《たお》そうとしている一人だというのさ」  塔九郎はみじかく笑って、 「織田の間者として、飛騨桃源郷に分け入ってきたという言葉に嘘はあるまいが、一石を投じて、二鳥を捕《と》る、ことのついでにおれをも討ちとる所存であるのだろうよ。それはいい。それはかまわぬが、夢ごぜ殿よ、そなたがなにゆえおれにとり憑《つ》き、兵法者たちに纏《まつわ》りついているのか、どうにもそれが解《げ》せぬのだ」 「贄塔九郎様」 「なんだ」 「あなた様はご自分の宿星《ほし》を信じていると申されました」 「たしかにいうたが、それがなにか」 「さすれば、どこまでもご自分の宿星《ほし》をお信じになられるがよろしかろうと存じまする」 「…………」 「宿星が強運であらせられれば、なにもそのようにおあせりにならずとも、繭玉《まゆだま》がときほぐれていくように、あなたさまのお知りになりたいことはじねんにわかってきましょうものを。闇の太守様らしゅうもない。急《せ》きなされまするな」 「…………」  塔九郎はしばらく黙していたが、やがて馬酔木《あしび》の頸《くび》から手をはなして、 「いかにも道理じゃ」  くったくない声でそういい、足をはねあげるようにして、弾みをつけ、板敷のうえを横にころがり、おんなのからだから離れた。 「いかにも道理」  そしてまたそう繰り返して、 「馬酔木《あしび》殿、これはおれの考えちがいであった。もはや引きとめぬゆえ、お好きなところへ参られるがよろしかろう」 「わたくしは夢ごぜでござりまする。好きなところは、とり憑《つ》いたおひとの精神《こころ》のなか」 「伽《とぎ》はしてくれぬか」 「夢のなかで、存分に」 「おお、さすれば急いで寝ると致そうか」  おんなの低い含み笑いがきこえてきて、かいどりが風をはらんで、一瞬、ふわりと浮かびあがった。  微風がそよぐように、また桃のかおりがした。  ふすまのすべる音がきこえ、塔九郎は闇のなかにただひとり残された。  いや、ただひとり残されたように見えたのであるが、 「幻阿弥《げんあみ》」  塔九郎は仰向《あおむ》けによこたわり、まじまじと天井を凝視しながら、そう声をかけたのだ。 「御前《おんまえ》に候」  闇のなかから幻阿弥の剽軽《ひようげ》たような声がかえってきた。 「しばらく姿を見せなんだではないか」 「思うところがござりまして」  幻阿弥は一つくしゃみを落として、 「白川で水あびをいたしておりました」 「ふふ、それは風雅な」 「塔九郎様、あのささらすり、放下師、鉢叩きたちなる者、それがしはからずもおなかまと申しあげましたが」 「うむ、おそらくは間者であろうな」 「甲斐の武田の手のものでござりましょう」 「尾張の織田に、甲斐の武田……ふふ、なにやら飛騨桃源郷にもきなくさい臭いがしてきたようではあるが、幻阿弥」 「は」 「おれの宿星《ほし》が見えてきた」  塔九郎は十拳剣《とつかのつるぎ》を引きよせると、ゆっくりと身を起こした。かいどりが肩から落ち、さらさらと床にながれる。 「寝てもいられまいよ」 「はて、夢で馬酔木《あしび》と逢瀬《おうせ》を楽しまれるものとばかり思うておりましたが、うち捨てておかれてもよろしいので」 「夢で」  塔九郎は子供のように白い歯を見せた。 「わびるさ」  炎が燃えあがり、あかあかと須弥壇《しゆみだん》のうえの仏像を照らしだしている。  降三世《ごうざんぜ》明王と似ていた。  像容は青色の体を持つ忿怒《ふんぬ》像で、四本の手に剣、金剛鈴、三叉戟《さんさげき》、索《さく》を持ち、火焔光《かえんこう》を背にしている。  しかし降三世明王ならば三面八|臂《ぴ》であるはずなのに、これは二面四臂で、しかもその足になにかからす天狗のようなものを踏みしめていた。  だれか飛騨の伝説にくわしい者が、この仏像を見るようなことがあれば、これは両面宿儺《りようめんすくな》であろう、とたちどころに看破《かんぱ》したかもしれない。  両面|宿儺《すくな》は仁徳天皇の時代に、飛騨の出羽平に棲《す》んでいたといわれ、一身二面、四本の手に武器を持ち、四本の足で宙を飛ぶように走ったと伝えられている。すくなひこの末裔《まつえい》だとも、また飛騨で穴居生活をしていた先住民族だったともいわれているが、要するに大和《やまと》朝廷の勢力拡張によって滅ぼされた土蛛蜘《つちぐも》の一族であるようだ。  だとすると、両面宿儺が踏みつけているからす天狗は、神武天皇を大和へ先導したといわれている熊野の神鳥、あの八咫烏《やたがらす》であるにちがいない。  かえりぐも城慈照寺、京の慈照寺にならって、蓮池に面してつくられている銀閣は、まさしくかたちばかりの観音殿で、衆生《しゆじよう》に現世利益をほどこす観音像ではなく、大和朝廷に仇《あだ》をなす両面宿儺像がまつられているのである。  その両面宿儺像のまえに、三角形の炉をしつらえて、火を焚《た》き、ひとりのおとこが坐っている。  そのおとこの背後に、やや離れるようにして坐っているのは、内島|氏理《うじまさ》である。この若者は蒼白になり、かっと眼を見ひらいて、前方に坐っているおとこを凝視している。  だとすると、炉のまえに坐っているおとこは、城主の内島|雅氏《まさうじ》なのであろうか。  護摩木《ごまぎ》の炎が大きくゆらめいて、一瞬、おとこの顔を浮かびあがらせた。  無残に焼け爛《ただ》れ、肉がひきつれてしまい、どくろのように歯が剥《む》きだしになっている顔だった。  その顔がゆらめいて、炎がすっと暗くなっていくと、仄《ほの》暗いなかに、またべつの顔が浮かびあがってきた。  僧頭の、色が白く、年齢の定かでない顔をしたおとこで、その眼には暗く、やや哀しげな光をたたえていた。  まさしく両面宿儺、護摩木の炎は焼け爛《ただ》れた顔にあかあかと映《は》え、うす闇のなかには僧頭のおとこの顔がただよって、水泡《みなわ》のようにふたつの顔が浮かんでは消えるのを繰り返しているのだ。 「万物流転、諸行無常、それが現世のことわりだというのなら、わしは現世に未練など毛頭持たぬわい」  どちらの顔がいうのか、もの憂いような声がそう聞こえてきて、 「現世など犬にくれてやってもよい。わしはそう思い念じて、この世のことわりを白川郷の外に捨て、九十余年もの長きにわたり、戦乱のない地をたもってきたのではないか。それを氏理《うじまさ》、そなたはいまさら修羅の世に戻したい、とそう申すのか」 「いかに白川郷が飛騨桃源郷であろうとも」  氏理は苦しげに声をはげまし、 「時勢にさからうことはできますまい」 「ほう、時勢にさからうのもここまで、舟を乗りかえねばならぬ秋《とき》がきていると、そう申すのか」 「畏《おそ》れながら」 「ふふ、賢《さか》しらな口をききおるわ。さすれば訊《たず》ねもしようが」 「は」 「だれの舟に乗りかえようというのだ、甲斐の武田か、越後の上杉か」 「甲斐の武田が越中国に攻《せ》め入ろうとしているといううわさがござりまする。これはあらためていうまでもないことながら、武田勢が越中国へ攻め入るには、まず飛騨の国を獲《と》らねばなりませぬ。武田勢は優に三万、これに攻め入られれば、飛騨の国はひとたまりもなく崩れましょう。飛騨の国という後ろ盾《だて》をうしなえば、もはや白川郷ははだかも同然。桃源郷は一場の夢、ただ滅びるを待つばかりとあいなりましょう」 「ゆえに武田とよしみをむすんでおけと、そう申すのか」 「時勢でござりますれば」 「武田晴信(信玄)は実父を京へ追いのぼらせて、わが子の義信をとらえ、誅《ちゆう》したほどの惨《むご》いおとこであるぞよ。その武田とよしみをむすぶなど、餓狼《がろう》のまえにわが身をなげだすようなものではないか」 「しかし武田勢に飛騨の国が落とされて、白川郷が滅ぼさるるを、坐してむなしく待つよりは」 「餓狼に媚《こ》びたほうがよいと申すか」 「は」  氏理は唇を噛んでいる。  武田に媚びる、たしかにそういわれればそうであるかもしれず、これは城主の内島|雅氏《まさうじ》よりも、むしろ若い氏理にとってのほうが、屈辱的な情況であったにちがいない。しかし強者にしたがうは、戦国の世のならいではないか、氏理はそう考えていたし、なにより停滞しきっている白川郷の空気に、もはやこれ以上一刻も耐えられなくなっている。戦国の広い天地で自分の力を存分にふるってみたいものだ、とそう考えるようになっていた。  内島氏理の若い闘志、情熱は、眼を伏せ、唇を噛んだその表情に、ありありと表われていた。 「強者に媚《こ》びを売り、わずかに余命をつないだところでどうなるというのだ。詮《せん》もないことではないか。滅ぶべきものなら、いっそ早うに滅んでしまったほうが、いさぎよいとは思わぬか」  そう説くようにいい、雅氏はふいに声をはりあげると、 「氏理、わが顔を見よ」 「は」 「見ぬか」 「…………」  氏理はゆっくりと面をあげた、その眼にかすかに怯《おび》えたような翳《かげ》を浮かべていた。  護摩木《ごまぎ》の炎のなかに焼け爛《ただ》れた顔がゆらめき、うす闇のなかにやや哀しげな表情をした、僧頭のおとこの顔が浮かびあがる。ふたつの顔がほたるが明滅するように、浮かんでは消えて、憤《いきどお》ろしげに、あるいは悲しげに、氏理を見つめているのだ。 「明と暗、盛と衰、浄土と地獄、わがふたつの顔はこれを凝視し、そのはざめを見るのを厭《いと》うているのだ。桃の花咲きほこるがごとく栄えるのならばそれもよし。が強者の施《ほどこ》しを受けねば滅びるというのであれば、是非もない、いっそ滅びてしまえばよいのだ……氏理、そうした覚悟があればこそ、こうして飛騨桃源郷を九十余年ものあいだ、流血も見ずに保《たも》ってこられたのではないか。いまさら戦国の修羅の世に舞いいでて、武田のたもとにすがったところで、飛騨桃源郷、桃の花がおとろえていき、あさましく滅びていくだけではないか。桃の花がおとろえるのを待つよりは、武田勢をむかえ討ち、美しいままにいっそひとおもいに散らしてしまえばよいのだ」 「お屋形《やかた》様……」  氏理《うじまさ》は顔を歪《ゆが》めて、うめくように、 「白川郷領民の三千もの命が滅びまする。かえりぐも城は焼け落ち、慈照寺の常春浄土もたちどころに地獄にかわりましょうぞ」 「厭離穢土《おんりえど》、欣求浄土《ごんぐじようど》……それがなにほどのことがあろうぞ」  雅氏《まさうじ》は謎めいた微笑を浮かべ、 「わがふたつの顔は浄土と地獄をふたつながら見すえているのだ。氏理、慈照寺の常春浄土の庭園もな、ひと皮|剥《は》げば、そこには地獄が待ちうけておるわい」  氏理はよろばうように観音殿の外へ出て、夜空を仰いだ。  闇をはらって、冴々《さえざえ》とさえわたる飛騨の月が、白川郷に咲きみだれる桃の花を、妖しく浮かびあがらせている。  それをなにか放心したように見ながら、氏理はポツリと口のなかでつぶやいた。 「かくなるうえは是非もない、お屋形様を弑《しい》し奉る」     五  内島氏理のつぶやく声は風にわたり、石を投げこんだ泉水に波紋がひろがっていくように、夜の闇のなかに滲《にじ》んでいった。  その声がかえりぐも城慈照寺の外にまでつたわり、岩壁を噛《か》んで、流れすぎていく庄川の水音に溶け込んだとき、 「心得た」  岩石、草むらがにわかに動き、ねずみ色の忍び装束に身をかためたおとこたちが十人あまり、月あかりのなかに這いだしてきた。  彼らはささらすり、鉢叩き、放下師、あの旅芸人たちであった。 「内島雅氏を殺す」  ささらすりのおとこがそう叫ぶ声を、鞭《むち》のひと振りのように、背に聞きながら、おとこたちは慈照寺に疾《はし》った。  ふいにおとこたちのまえに月光をあびて、白い人影がゆらりと立ちはだかった。  魔性のものか、白いかずきを頭からかぶって、小袖を着、嫣然《えんぜん》とほほ笑んでいる白拍子《しらびようし》を見て、あるいはおとこたちはそう思ったかもしれない。 「邪魔をいたすな」  ひとりのおとこが走りすぎざま、剣を逆手《さかて》に抜き、白拍子の首を刎上《はねあ》げた。一閃《いつせん》、血しぶきが月を濡らしたように見えたが、ふわりと舞ったかずきが剣にからみつき、 「ああ」  慌《あわ》てて飛びすさったおとこの胴を、すばやく白拍子が薙《な》ぎ落としている。ざあっと血しぶきが散るなかを、白拍子は左手をのばし、舞うようにかずきをとると、上段から斬りかかろうとしたべつのおとこの喉《のど》を、なんの造作もなく串刺しにしていた。 「おのれ」  とりかこもうとするおとこたちを揶揄《からか》うかのように、白拍子は右に左に刀を薙《な》いで、喉を貫いたおとこを傀儡《くぐつ》のようにあやつり、盾がわりに使っている。  かずきが白くただようなかを、死人の体は月の光に浮かれたように舞い、惨《むご》いとも、奇怪とも、なんともいいようのない白拍子の刀術であった。 「けえっ」  ひとりのおとこが大きく跳躍し、死人とかずきのうえを越えて、宙返りしざま、剣を水車のように上段からふりおろした。まさしく水車、血しぶきを月光に撒《ま》き散らしたが、おとこが斬ったのは白拍子ではなく、死人であった。  これほどの遣《つか》い手が、地におりたところを胸をしたたかに蹴られて、亀のように無様《ぶざま》に転がされていたのだ。 「おやめ、おやめ」  白拍子はにこりと笑い、 「甲斐のおひとたち、わたくしは尾張のほうより罷《まか》りこした。甲斐と尾張の諜者がこうして飛騨の地でめぐり会えたもなにかのえにしではござりますまいか。われら間者は武士とはことなり、報奨はあっても、功名などというものがあろうはずはない。めざすものがおなじであれば、なにも諍《いさか》うこともないではありませぬか」 「めざすものがおなじだと申すか」  ささらすりのおとこがそう訊ねるのに、 「はい」  白拍子はうなずき、 「内島|雅氏《まさうじ》の首でござりましょう」 「…………」  おとこたちは戸惑《とまど》ったように、たがいに顔を見かわしていたが、忍者は節義や、功名心よりも、なによりも任務を成しとげることを最優先に考えなければならない。 「よかろう」  やがてささらすりのおとこは顎《あご》を引き、 「忍者には忍者の流儀というものがあり、味方を斃《たお》されたまま引きさがったとあっては、われらの一分がたたぬが、それもこれも雅氏の首を獲《と》ったあとでのことにしようわい。いまは私闘にうつつを抜かしているときではあるまいよ」 「よい分別でおざりまする」  ひとを小馬鹿にしたように、白拍子がそういい、またにこりと笑ったとき、 「さすれば」  と背後より、声がきこえてきた。 「ゆるゆると夜討ちをかけに参ろうか」  贄《にえ》塔九郎であった。  ささらすりたちは塔九郎を白拍子の仲間だと思っているらしく、闇のなかから彼が現われたのを、べつだん怪訝《けげん》に思っているふうでもなかった。ささらすりは二人のうち、どちらにともなくうなずくと、 「罷《まか》る」  一声放って、そのまま武田の忍者たちは黒い颶風《ぐふう》のように、月あかりのなかを、慈照寺に向かい、走り去っていった。 「まことに百万の味方を得た思いがいたしまする」  白拍子は塔九郎の眼を見つめて、 「九十余年の安逸《あんいつ》にぬくぬく身をよこたえている内島一族、その心胆を冷やしてやるはわが悲願ではありましたが、なにさまあの者たちのみが頼りでは、心細うてならず、十にひとつ、お前様がお味方についてはくれぬかと念じておりましたが、これで雅氏の首を首尾よう獲《と》ることができまする」 「なにを弱気な……かえりぐも城慈照寺、見ればなんの変哲もない寺院ではないか、幸い宿直《とのい》がつめているようでもない、そなたほどの業《わざ》があれば、いともたやすい仕事であろうが」 「それが」  白拍子は急にうすさむいような顔になり、 「どうしてかわたくしには、この寺院がなにやらひしひしと恐ろしいものに感じられてならぬのでござりまする」  その言葉に、塔九郎はふと慈照寺をふり仰いだ。  慈照寺の寺垣が皓々《こうこう》と冴え、月の光のなかに本堂の高い屋根が、いらかを青く染めて、くっきりと浮かびあがっていた。その襖絵《ふすまえ》のようにほどのよい光景が、しかし月光にむしろ蒼ざめてさえ見える桃の花に埋まり、なにやら不吉なものとして、塔九郎の眼にも映っているのであった。  塔九郎と白拍子のふたりが慈照寺へ立ち去ったあと、闇のなかに馬蹄の音が響き、荷馬を引いたおんなが姿を現わした。  そのおんなは馬の鼻をかるく叩くようにして、そこに足をとめると、しばらくあたりの様子をうかがっているようだった。  おんなは、馬酔木《あしび》であった。 「馬の荷は火薬とみたが」  ふいに漠々とした夜気のなかに、声がきこえてきた。 「夢ごぜ殿には、慈照寺に火を放つおつもりであるのかな」 「幻阿弥《げんあみ》殿か」  馬酔木《あしび》はおどろいたふうもなく、むしろ微笑さえ含んで、 「あの白拍子というおとこ、よほど飛騨桃源郷にはらが煮えてならぬらしく、九十余年もの太平を一気に大叫喚地獄に追い落とすのが、望みであるそうな」 「はてさて、いかにもそれは難儀な御仁《ごじん》であるが、なにゆえそのような狂犬に、夢違《ゆめちがえ》観音をあがめるたいし一族の馬酔木《あしび》殿が味方しておざるのか、わしにはそれが解《げ》せぬわい」 「…………」  馬酔木《あしび》はそれにはただ黙しているのみである。 「まあ、よいわさ。塔九郎様が白拍子にお味方するのであれば、こなたも馬酔木《あしび》殿を助《すけ》てさしあげねばなるまいよ」  光の粉を撒《ま》いたような月あかりのなかに、おぼろげに人のかたちが浮かびあがり、それが幻阿弥の姿に凝集していった。 「あの白拍子の言葉ではないが、どうしてかわしもかえりぐも城慈照寺が、おそろしゅうてならぬのだ」  このおとこには珍しく、幻阿弥はひどく深刻な表情になっていた。  禅刹《ぜんさつ》庭園は仏教の理想郷をなぞらえて、黄金池を中心に、湘南亭・潭北《たんほく》亭・瑠璃《るり》殿を置き、西来堂を建てるのが、その基本となっている。  かえりぐも城慈照寺の庭園もその基本に忠実につくられていて、帰雲山のなだらかな山陵地形から湧水《ゆうすい》をとり、銀砂を掃《は》いた庭を海に、立石を島に見て、指東庵と山路を象徴する枯山水石組の庭も設けられている。  池に蓮を浮かべているのは、こうした庭園の定法のようなものであるが、かえりぐも城慈照寺の庭園がほかのものとやや異なっているのは、鑑真《がんじん》がわが国にもたらしたという樒《しきみ》が、いたるところに植えられていることである。  樒は抹香《まつこう》の原料になり、このほかにも釈迦がその下で悟りをひらいたという菩提樹《ぼだいじゆ》、あるいはその下で入滅したという沙羅双樹《さらそうじゆ》なども植えられていて、この庭園には仏教にゆかりのある植物が多い。それが典型的な禅刹庭園でありながら、このかえりぐも城慈照寺の庭園になにか異国情緒《エキゾチシズム》のようなものを与えているのだった。  常春浄土、極楽をなぞった庭園に、月の光はしらじらと冴えて、庭園の東をさえぎるようにして聳《そび》えている帰雲山の岩塊を、黒く浮かびあがらせている。  月を背に負うようにして、その岩のうえに内島|氏理《うじまさ》が立ちはだかり、庭園を見下ろしていた。  いかにも秀でたそのひたいを、月の光が蒼く染めて、なにか氏理の表情は死人のようにこわばって見えた。  氏理はゆっくりと右手を挙げると、 「謀反《むほん》つかまつる」  そう口のなかでつぶやき、あたかも一軍の将が兵に下知をくだすように、その手をさっとふりおろした。  枯山水庭園の白砂の海に、ふいに立石が動いた。  いや、これまでさながら岩と化し、砂に溶けこんだかのように微動だにしなかった武田の忍者たちが、ひたひたと観音殿に押し寄せていくのだ。  武田の忍者はささらすりを先頭にし、八人を数えた。だれも跫音《あしおと》をたてずに、だれ一人として声をだす者もいない、彼らはひたすら必殺の意志を研《と》ぎ、声にはださずとも、梵唄《ぼんばい》を歌うように、その意志をひとつに融《と》かしていって、ついには純粋な殺気のみを練りあげていくのだ。一種の神がかりといっていいかもしれず、この世に忍者の集団ほど強力な暗殺集団は存在しない。  これは見事なものではないか……  あざやかな連繋《れんけい》をなし、観音殿に押していく忍者たちを見ながら、塔九郎は心中感嘆の声をあげている。  そのくせ自分も忍者たちに劣らず、いや、おそらくはそれよりもはるかに勝《まさ》った敏捷な動きで、庭園を疾《はし》っていくのだ。塔九郎の身のこなしの軽捷さは、忍者たちのように修行でつちかわれたものではなく、天性のものというべきであった。  白拍子もやはり塔九郎とおなじく、あざやかな体術で地を疾《はし》り、頭からかぶっているかずきが、流れ星のような白い光芒を引いていった。 「待て」  ふいにささらすりのおとこが低い声でそう命じた。  いや、ささらすりの下知を待つまでもなく、忍者たちは足をとめて、ひたと地にはりついている。異常に研ぎすまされたこの者たちの神経が、五感のそとになにかを感じさせ、とっさに身を避《よ》けさせたのである。  塔九郎はその場に立ちどまり、白拍子のほうはすっと地に沈んで、白鞘《しらさや》に金を蒔《ま》いた無反りのこしらえという、まるで舞いにつかうような太刀に手を添《そ》えている。  そして、待った。  風が吹きはじめて、ひょうひょうと夜気を震わせていた。月が隠れたらしく、一瞬、墨を流したように、暗闇が土地を覆《おお》い、またすぐにあかるくなっていった。 「来た」  とだれかが悲鳴のように叫んだ。  ひょう、と弓弦《ゆみづる》を鳴らす音がきこえ、火矢があかあかと闇を裂き、空を疾《はし》っていくのが見えた。  三本、四本とつづいたが、かならずしも暗殺集団を狙ったものではないらしく、火矢はことごとく彼らの頭上を越え、庭園のそこかしこに落ちていった。  そして樹を焼き、苔土を這《は》い、めらめらと燃えあがりはじめた。 「これは篝火《かがりび》のつもりであろうか」  その炎にあまねく全身を照らしだされて、おとこの一人が耐えかねたように、そう叫んだ。  次の瞬間、叫んだおとこはうぐっ、となにかおしつぶしたような声をあげ、喉をかきむしるなり、地に崩れた。そして足で地を掻くようにして痙攣《けいれん》し、おびただしく血を吐き散らして、絶命した。  なにが起こったのか詮索《せんさく》するまでもなかった。  庭園に植えられている樹々は、かたちこそ樒《しきみ》、菩提樹、沙羅双樹に似せてあるが、仏教樹などとは名ばかり、火にくべると、人を死にいたらしめる毒気を放つ、この日本国には例のない毒樹であったのだ。  毒気は庭園に満ち、さしもの精鋭をほこる武田の間者たちもなす術《すべ》もなく、内臓が爛《ただ》れていくまま、血を吐き、膿汁を九穴よりしたたらせて、次々に斃《たお》れていった。  ——わがふたつの顔は浄土と地獄をふたつながら見すえているのだ……  たもとで鼻と口を押さえて、息をとめ、ひたすら毒気のなかを走り抜けていく塔九郎は、ふとだれかが呪詛《じゆそ》をとなえるように、そうつぶやく声を聞いたように感じた。  ——慈照寺の常春浄土の庭園もな、ひと皮|剥《は》げば、そこには地獄が待ちうけておるわい……  たしかに禅刹庭園の極楽浄土は一変し、月の光のなかに地獄世界がありありと浮かびあがって、武田の間者たちを容赦なく滅ぼしているのだ。  熱いどろどろした血と膿《うみ》が滾《たぎ》るなか、次から次に間者たちが力つき、斃れていくさまは、まさしく屎泥処《しでいしよ》地獄さながらであった。 「息をすな」  ささらすりのおとこが叫んだ。 「ひたすら駆けよ」  その声にはげまされたかのように、二人のおとこが地を蹴り、宙を翔《かけ》のぼって、怪鳥《けちよう》のように月光のなかを舞った。  跳躍し、一気に毒気から逃がれ出《いで》ようとしたのであろうが、 「げええっ」  彼らが降りたった地がふいに崩れて、ふたりのからだは転げ落ちていき、一瞬のうちに、火柱と化して燃えさかった。  あやうく塔九郎も落ちそうになったが、とっさに横転し、かろうじて難を逃がれた。  地中に埋められている巨大な鉄瓮《てつがめ》が、庭園を舐《な》めつくしている炎に、真っ赤に熱せられて、転げ落ちた不運なおとこふたりを、骨まで焼いているのだ。  瓮熱処《おうねつしよ》地獄か……  ほとんど無意識のうちに転がり、跳び、疾《はし》りながら、塔九郎は常春浄土が急速に地獄に変貌していくさまに、ただ呆然としていた。  瓮熱処地獄はそれのみにとどまらず、瓮《かめ》のなかの熱せられた空気が、  轟《ごう》っ  音をたて、炎を捲《ま》いて、暗黒のなかでひとを闇火に焼く闇冥処《あんみようしよ》地獄そのままに、地上に吹きあがっていったのだ。 「ああ」  またひとり、不運な忍者が忍び装束を火に包み、きりきりと苦悶《くもん》の舞いを踊った。  すでに武田の忍者たちも四人を余すだけになっている。  その四人がそれこそ死にもの狂いになり、 「おのれ、雅氏《まさうじ》、首を獲《と》らずにおくものか」  ささらすりのその憤怒を、全員の意志として、慈照寺地獄庭園を観音殿に向かい、ひた走りに走っていくのだ。  ぴいん、となにか鋼《はがね》を打つような音が聞こえて、頭上の枝が撓《しな》い、黒い縄のようなものが地を裂き、眼のまえに大きくうねるのが見えた。  塔九郎はとっさに十拳剣《とつかのつるぎ》を抜き、その黒い縄を逆手で薙《な》ぎはらいざま、自分は大きく飛びすさっている。  熱鉄の縄は蛇のように宙を舞い、樹を焼いて、草むらを燃やした。 「黒縄地獄でおざりまするなあ」  白拍子の声が聞こえ、白いかずきが闇をかすめていくのが見えた。 「塔九郎様、もはや毒樹は毒を吐きだしてはおりませぬぞ。安堵《あんど》なされませ」 「いや、安堵するのはまだ早かろうよ」  塔九郎がそう応じたとき、にわかに轟音が地軸を震わせて、地が薄紙のように激しくうねるのを感じた。  揺れる慈照寺地獄庭園に、月の光が霞《かすみ》わたり、ふいに水音が聞こえてきた。 「おお」  忍者のひとりが狂おしく叫び、 「庄川の堰《せき》が切られたっ」  月光に銀のしずくを舞いあがらせ、水流が鉄槌《てつつい》のように押し寄せてきて、燃えさかる炎はひとたまりもなく消えていき、白い煙りが庭園を覆っていった。  枯山水の庭は水に流され、濁流となり、おびただしい砂は地表を滑っていき、轟音とともに岩を動かした。 「ぐああ」  これはすなわち衆合地獄、小石を人差し指で弾《はじ》くように、巨大な岩石が転がり、宙に跳ねあがって、無残にもおとこたちをあっけなく押しつぶしていくのだ。  肉を裂かれ、骨を折られ、頭を砕《くだ》かれて、おとこたちは岩石が転がるままに、�黄金池�に落ちていき、浮き沈みをくりかえすむくろは、血と脳漿《のうしよう》で池をどすぐろく染めていくのであった。 「念の入ったことじゃ」  狂ったようにそう笑ったのはささらすりのおとこで、 「血の池地獄までもが抜かりなく用意されている」  武田の忍者はことごとく滅び、生き残ったのはささらすりのおとこただ一人、それに加えて塔九郎、白拍子、この三人のみが、かろうじて観音殿までたどり着けたのだった。  その性《さが》を冷えびえと保《たも》ち、容易に感情の起伏に身をゆだねることのないはずの忍者も、さすがに仲間をことごとく失ったのには、いささか狂気を兆《きざ》しているようであった。  血笑というべきか、狂したようにひとしきり笑ったのち、ささらすりは眼に偏執的な蛍火を点《とも》し、 「八つ裂きにしてくれようわい」  剣を抜きはらいざま、もはや塔九郎たちを見向こうともせず、観音殿の扉を蹴りたおして、そのなかに躍り込んでいった。     六  桟唐戸《さんからど》を蹴りたおしたとたん、ささらすりは危険を感じ、すばやく板敷のうえに転がって、難を避《さ》けようとした。  怒りのあまり冷静さを逸《いつ》して、忍者らしからぬ無謀な行為にでた自分自身に、臍《ほぞ》をかむ思いがしたであろうが、よもやそのまま死ぬはめになろうとは、夢にも考えなかったにちがいない。  床に転がるささらすりを追うようにして、それまで壁に水平に吊りあげられていた、板に格子を貼った半蔀《はじとみ》が、轟音とともに頭のうえに落ちてきた。  半蔀《はじとみ》が落ちたとたん、いかなるからくりによるものか、格子がささらのように裂け、おとこのうえにざあっと降りそそいで、その体に容赦なく刺さったのである。 「ああっ」  ささらすりのおとこはその名のとおり、喉といわず、眼といわずささら状に裂けた格子に串刺しにされて、板敷のうえに血しぶきを撒《ま》き、わずかに体を痙攣させたのみで、すぐに息をひきとった。 「これは」  戸口に立ちつくした白拍子《しらびようし》が、なにか喉にからんだような声でつぶやいた。 「剣の林があり、両刃の刀が降ってくるという刀輪処《とうりんしよ》地獄でござりましょうなあ」 「左様」  ふいに観音殿の奥の闇のなかから声が聞こえてきて、 「よくぞ屎泥《しでい》処、瓮熱《おうねつ》処、闇冥《あんみよう》処、刀輪処、地獄めぐりをわたりたまいて、ここまで無事に参られた。まずは祝賀を述べさせていただこうか」 「…………」  塔九郎は十拳剣《とつかのつるぎ》に手を当て、白拍子もいつでも戦いを挑《いど》めるように、かずきに手を添《そ》えていたが、ささらすりの無残な死にざまを目《ま》のあたりにしては、それ以上うかつに動くわけにはいかなかった。 「案ずることはない、ここまで来れば、もはや地獄も底をついておろうわい。強《し》いて申さば、わが顔のひとつは」  護摩木《ごまぎ》の炎がふいに大きく燃えあがり、そのおとこの半面は焼け爛《ただ》れて、もう半面は哀しげな表情をしたふたつながらの顔を、ありありと浮かびあがらせた。 「つねに地獄を向いているのだが、いまひとつの顔は常春浄土の麗《うら》らかさに和《なご》んでいる。やはりここには地獄はあるまいよ」 「あ、あなた様は内島……」  雅氏《まさうじ》様、と白拍子はそう喉まで出かかっていたにちがいないが、 「佐様、内島|為氏《ためうじ》である」 「げえっ」  白拍子が眼が剥《む》き、驚愕《きようがく》したのも無理はない。  内島為氏がかえりぐも城を築いたのは寛正六年(一四六五)のことで、いまから百年ちかくもまえのことである。そのときにおいてさえ為氏《ためうじ》は壮年に達していたと伝えられているのだから、彼がいまだに存命だとしたら、はたして何歳になっているのか、もはや想像することすら難しい。 「内島雅氏様はいずこにおわしまするや」  白拍子がそう訊ねるのに、 「雅氏などというおとこはどこにもおらぬ」  と為氏はあざけるようにいい、 「わがことながら、あまりに度を越した長命ぶりをいささか持てあまし、なによりこうも長生きいたしては、領民どもより化け物あつかいされかねぬゆえ、な。いかにも政《まつりごと》を掌《つかさど》るのには不都合が多すぎる。やむなく雅氏などという居《お》りもせぬせがれになりすましたのだが、おかげで要らざる苦労をいたさねばならなんだ」 「そ、それでは氏理《うじまさ》様は……」 「あれは養子よ。いかにわしとて、わが孫にまでなりすますのはほねであろうよ」  為氏の声が沈痛な響きを帯びて、 「思えばあれには不憫《ふびん》なことをいたした。器量によっては、天下《てんが》を切りとるも思うがままの戦国の世だ。わしがごとき死ぬるを忘れた化け物に頭を押さえられていては、血が鬱《うつ》して、骨の腐るような思いがし、謀反を考えたくなるのも無理はなかろう」 「…………」  もはや白拍子は言葉もないようだった。  これは現代のはなしになるが、たしかに内島一族には謎が多く、初代の為氏、二代の雅氏、三代の氏理にまつわる資料は極端にすくなく、とりわけ為氏と雅氏のふたりは何歳で、どんな理由で死んだのか、それすらわかっていない。  内島一族の白川郷での治世は百二十年もの長きにおよんでいるが、その間《かん》、わずかに三代、一族の異常な長命ぶりは、現代にいたるまで、様々な論議を呼び起こしている。  しかしそれにしても初代の為氏と、二代の雅氏が同一人物であったとは、さしもの白拍子がかっと眼を見ひらいているのみで、なにをどうする術《すべ》もなく、ただその場に立ちつくしているのだった。 「わしはな」  為氏が言葉をつづけて、 「おのれがことを朝廷に滅ぼされた飛騨の山神の生まれかわりと信じているのだ」 「両面|宿儺《すくな》……」  それまでただ黙していた塔九郎が、ボソリと言葉をはさんだ。 「左様」  為氏はうなずき、やや眼を狭《せば》めるようにして、しばらく塔九郎の顔を凝視していたが、 「そしてあなた様は須佐之男命《すさのおのみこと》のご再来、闇の太守様」 「ほう、それをご承知か」 「いささか呪法をいたしますれば」  為氏は威儀を正し、一揖《いちゆう》して、 「おさしつかえなくば、ご尊名をおきかせいただけませぬか」 「ご尊名などとたいそうなものではないが、わが名は贄《にえ》塔九郎、出雲の鉄穴師《かんなじ》さ」 「贄、塔九郎様」  為氏は口のなかでつぶやくようにいい、 「古《いにしえ》の書にこう記されてあるのはご存知か——すでにして、須佐之男命、根の国に就《い》でましぬ……贄塔九郎様、あなた様は出雲|黄泉《よみ》国の、いや、この日本国の闇の太守様でござりまするよ」 「ほう、これは大気《たいき》なはなしを聞いた、それがしが日本国の太守だと仰せられるのか」 「いかにも」  為氏はまたうなずき、 「ただし顕国《うつしくに》ではござらぬ。この日本国には顕国《うつしくに》の裏にひっそりと身をひそむようにして、いまひとつ根の国がござりまする。須佐之男命は顕国の太守にあらず、根の国を統《す》べるがゆえに、すなわち闇の太守……贄《にえ》塔九郎様、八神評、あるいは八神郡なる呼称をお聞きになったことはござらぬか」 「あいにくの無学にて」 「ふふ、わしも無学ではあるが、馬鹿な長生きをしたかいあって、人よりはいささか物識《ものし》りになり申したわい。持統《じとう》、文武《もんむ》天皇の御世《みよ》というから、さあ、いまより千年ほどまえのはなしでおざりましょうや、とりわけ尊《たつと》い神の社《やしろ》を鎮座した郡を神評、もしくは神郡と呼ぶのが古代の仕来《しきたり》でござりましたそうな……古書によれば出雲の国|意宇《おう》郡、常陸《ひたち》の国鹿島郡、下総《しもうさ》の国香取郡、安房《あわ》の国安房郡、伊勢の国|度会《わたらい》郡、同国|多気《たき》郡、紀伊の国|名草《なぐさ》郡、筑前の国|宗像《むなかた》郡の八郡を、八神郡と呼ぶならわしであったとか」 「ほう、出雲の国……」  塔九郎は口のなかでつぶやき、ちらりと白拍子を見つめた。 「それに剣聖塚原|卜伝《ぼくでん》で名だかい鹿島の社家も、その八神郡のひとつであるのか」 「…………」  鹿島神宮に参籠し、贄《にえ》塔九郎を討つべしという託宣をうけたはずの白拍子、塔九郎の当てこすりを聞いても、そ知らぬ態《てい》をよそおっている。 「さきほども申しあげたとおり」  と為氏は言葉を継ぎ、 「この日本国には顕国《うつしくに》にかさなるようにして、黄泉《よみ》国、根の国がおざりまする。顕国《うつしくに》に八神郡あらば、根の国にも八蛇郡あり、すなわち須佐之男命がお退治になった八岐《やまた》の大蛇《おろち》、その八つの首を埋めた地を称して、根の国の八蛇郡……八神郡に護国の神々がおわせば、八蛇郡には亡国の邪《あ》しき神がおわす、顕国の王国やまとに滅ぼされし八岐の大蛇、その怨みは首になろうとも、ふつふつと滾《たぎ》り、瘴気《しようき》を発して、顕国にたたりなさんとす八つの邪しき神を誕生せしめたのでござりまする……闇の太守様、とき熟し、あなた様がこの世に生を承《う》けたは、すなわち須佐之男命が八岐の大蛇をお退治になられたがごとく、諸国をめぐりて、この邪しき神々を滅ぼさんがためでござりまするよ」 「八岐の大蛇の八つの首塚をめぐりて邪しき神を討つ」  さすがに塔九郎は狂おしい表情になり、 「それが、おれの宿星《ほし》だというのか」 「お血すじであらせらるれば、いや、八岐の大蛇を討ってこそ、あなた様もまことの須佐之男命におなりになれるのではござりませぬか」 「まずは、問いたい」 「なんなりと」 「八岐の大蛇の八蛇郡、それが何処《いずこ》にあるのかしさいに教えていただきたい」 「もはや余すところ七蛇郡となりはてておざりまする。あるいは」  為氏はにやりと笑い、 「六蛇郡を残すのみであろうかとも」 「どういうことだ」  塔九郎は眉宇《びう》をひそめた。 「お聞きおよびのことと存じますが、出雲の国は顕国《うつしくに》であり、また黄泉《よみ》国でもありまする。出雲一国のみは八神郡と八蛇郡を兼ね、さすがは神議《かむはか》りの地、護国神と邪《あ》しき神とがともに手を携《たずさ》え、おこもりであらせられたが、贄《にえ》塔九郎様、あなた様は出雲の国の邪しき神をすでに滅ぼしておしまいになられた」 「出雲|石上宮《いそかみのみや》……」  塔九郎は呆然《ぼうぜん》とつぶやいたが、すぐにその眼に冴えた光を点じて、 「為氏《ためうじ》殿にはまことになにもかもご存知のようだが、それもやはり呪法の賜物《たまもの》でござろうかな」 「さにあらず」  為氏は片膝をつき、ゆっくりと身を起こすと、 「飛騨白川郷もまた八蛇郡のひとつでござれば、両面|宿儺《すくな》の生まれかわりであるそれがしはすなわち——」 「邪《あ》しき神」  ふいに為氏はなにかを炉に押げ入れ、炎がめらめらと燃えあがった。白煙が風を捲《ま》いて、観音殿にたちのぼり、炎が真っ赤に反射して、一瞬のうちに視界をさえぎった。 「おおっ」  塔九郎と白拍子のふたりは、剣を抜きはらいざま、二メートルあまりも飛びすさっている。 「わが首を獲《と》られよ」  白煙のなかに巨大な影がゆっくりと身を擡《もた》げて、 「大蛇の首は七つ、闇の太守様、まずはわが首を獲り、血まつりになされたまえ」 「ええい」  宙をつんざく閃光のように、白拍子のかずきが疾《はし》り、白刃《はくじん》がうなりをたてて、その影のうえにふりおろされた。  がっ、となにか鋼《はがね》を鳴らす音が聞こえ、剣は弾《はじ》きかえされて、白拍子はひらりと宙に舞い、そのまま地に降りたった。 「百余年もの長きにわたり、わがふたつの顔は」  と白煙のなかに為氏の声が聞こえて、 「極楽浄土と地獄をふたつながら見すえてまいった。おお、わしほど地獄を深く見すえて、極楽浄土に激しく餓《かつ》えた者が、ほかにおろうか」 「なにをこけな」  白拍子はいかにも憎々しげに、 「極楽往生、仏徳報謝、すべては坊主の身すぎではないか。いまの戦国の世がすなわち修羅地獄、極楽浄土などというものが何処にあろうや。地獄に眼をとざし、来世に極楽浄土を乞いねがうその精神《こころ》こそ、真の堕地獄というものではないか」 「罪障消滅……それを乞いねがうがなにゆえにあやまちであるものか、まさしくいまの世は修羅地獄であるが、その地獄の暗さを深く見すえればこそ、極楽浄土がひときわ光を増すのではないか」 「この非情の世に地獄の風は永却《えいごう》に吹きわたる。暗い地獄に、よしんば極楽浄土が光を増すことがあろうとも、それは一|刹那《せつな》のことではないか」 「九十余年にもわたり栄華の花を咲きほこってきた飛騨桃源郷を、一刹那の極楽であったと申すのか」 「おとろえるがゆえの美、乱れるがゆえの泰平、九十余年もの安逸を貪《むさぼ》ってきた飛騨桃源郷はもはや桃源郷にあらず、もうひとつの地獄であろう」 「論を弄《いろ》うても詮《せん》はあるまい。おのれの精神《こころ》を地獄で染めた者に、浄土を欣求《ごんぐ》するひとのかなしみがわかろうはずはない」 「地獄を」 「極楽浄土を!」  もはや二人の声はひとつに融《と》けあい、いずれの声であるかもさだかではなく、ただ白拍子が狂したように、 「けええっ」  跳躍し、また上段から一撃を放ったが、それをがっきと受けとめ、体もろとも弾きかえしたのは、両面|宿儺《すくな》の三叉戟《さんさげき》であった。 「ああっ」  悲鳴をあげたのは白拍子か、あるいは塔九郎か、驚声を放つのも無理はなく、白煙をかきわけるようにして姿を現わしたのは、二面四臂の巨大な両面宿儺像だったのだ。 「贄《にえ》塔九郎様」  と両面宿儺像は頭上に声を放って、 「存分にわれと仕合われよ」  白拍子がかずきを舞わせて、たてつづけに手裏剣を打った。  両面宿儺は三叉戟を右に左に薙《な》いで、手裏剣は宙に青い火花を散らした。  そしてその巨体に似あわぬ敏捷な身のこなしで、塔九郎に向かい、驀進《ばくしん》してくると、 「参《まい》る」  三叉戟を突き、豪剣をふるい、凄《すさま》じい勢いで攻撃をしかけてきた。  塔九郎はとびすさり、あるいは右に左に転がって、両面宿儺の攻撃をかわしていたが、それがいかにも危うく、その命運はもはやつきかかっているかに見えた。  ふいに爆破音がたてつづけにきこえて、閃光が闇を裂き、観音殿は唸りを発して、大きく震動した。  幻阿弥の仕掛けた火薬が、いま火を放ったのだ。  その閃光のなかに、三叉戟と剣を持った内島為氏の姿がくっきりと浮かびあがるのが見えた。 「ご老人、幻術《めくらまし》はやぶれた」  と塔九郎はむしろ沈痛な声でそういい、 「世を儚《はかな》む気持ちもわからぬではないが、このほうにご老人を討つ気持ちは毛頭ない。刀を引かれよ」  力つきたようによろよろと後ずさる為氏に向かい、やにわに白拍子は踏み込んで、袈裟《けさ》に斬った。 「なにをするっ」  塔九郎が叫んだときには、百余年を生きながらえてきた内島為氏、血しぶきのなかにきりきりと舞い、はかなく崩れていった。 「なにをしたかは一目瞭然、極楽浄土を斬ったのでござりまするよ」  白拍子はなにか陶然とした面持《おもも》ちでそうつぶやくと、 「いまこそ御覧《ごろう》じあれ、武甕槌命《たけみかづちのみこと》様、この白拍子めが闇の太守を見事しとめてご覧にいれまする」  白拍子は艶《あで》やかに笑うと、かずきをふわりと頭上に投げ上げた。かずきは闇に白くただよい、一瞬、白拍子の姿を隠した。  しかし塔九郎はかずきに幻惑されもせず、また策を弄することもなく、ただ腰を落として、刺突のかまえをとり、数|間《けん》を一気に走り抜けた。 「うぐっ」  かずきごと体をつらぬかれて、白拍子は虚無の闇を仰いだ。 「そなたが斬ったのは極楽浄土ではない」  塔九郎はかなしげに囁《ささや》きかけた。 「そなたの分身を斬ったのだ」  幻阿弥の仕掛けた火薬が爆発し、かえりぐも城慈照寺にまた新たな火の手があがった。  内島|氏理《うじまさ》はそののち信玄になびき、信玄が滅んだのちは織田に加担し、戦国の乱世を器用に泳いだが、織田信長が死亡してからは、ついに秀吉という天下人に乗りそこねた。  豊臣秀吉の力のまえに、挫折を強《し》いられたとき、  ——かまえて白川郷を出てはならぬ。出れば、滅ぶぞよ……  あるいは氏理はお屋形様のこの言葉を想いだしたかもしれない。  天正十三年(一五八五)、秀吉の将、金森長近《かなもりながちか》の攻略のまえに氏理は降伏し、和平交渉のすえ、とにもかくにも白川郷の本領支配を許されて帰国した。  そしてその祝いをしようという前夜、大地震が起こって、帰雲城は城下町もろとも崩壊した山に押しつぶされて、内島一族はただの一夜で滅亡し、ここに飛騨桃源郷は永遠に地上から消え失せてしまったのである。 第三話 氷見痩面堂《ひみやせめんどう》     一  蜻蛉《とんぼ》が、空に舞っている。  オニヤンマ、ギンヤンマ、それにウチワヤンマなどがおびただしく水のうえを飛びかい、餌をとっているのだ。  秋の暮色が重くたれこめ、見わたすかぎりの広大な潟《かた》を、残照のなかにただ鈍《にび》色に光らせていた。  沿岸には葦《あし》が生いしげっている。  広い潟を右手に見、その葦をかきわけるようにして、編笠《あみがさ》の武士が歩いていた。  贄《にえ》塔九郎《とうくろう》である。  袖無《そでなし》羽織は埃《ほこ》りにまみれて、裁着袴《たつつけばかま》もすりきれた、あいかわらず薄ぎたないなりをしている。  ただし編笠の下から、秋の夕空を見あげる塔九郎の眼は、冴々《さえざえ》と澄みわたり、そこには旅の疲れはない。  ——今夜も野でやすむことになるか。  塔九郎はそう覚悟しているが、それをさして苦痛には感じていない。  野宿には慣れている。  茫々たる夕空のひろがりを見ていると、この下で一夜をあかすことが、なにか心ときめくことに思われてくる。葦の生いしげる岸辺に寄せる波音がわらべ唄のように優しく感じられるのである。  腰の袋をまさぐり、乾飯《ほしいい》をかみながら、  ——暗くなるまえに魚でも捕《と》ろうか。  塔九郎は微笑さえ浮かべていた。  空がすこし暗くなってきた。  遠くの水平線が橙《だいだい》色の光のなかに浮かびあがっている。  ぎゃあっ。  ふいに大気をつんざくような鳴き声がきこえ、眼のまえの茂みから鳥があわただしく飛びたった。  塔九郎は静かに足をとめている。 「そこにいるのはだれか」  訝《いぶか》し気に眉をひそめたが、表情にはいささかも動揺の色がない。そう問うと、その涼やかな眼をひたと葦の茂みに向けている。  またひとしきり茂みが揺れて、そこからなにか猿のようなものが這《は》いだしてくるのが見えた。  猿に似ているが、やはり猿ではない。  人間である。  襤褸《ぼろ》をまとい、腰の折れまがった老婆だった。白髪は乱れて、落ちくぼんだ眼に、歯抜けの口、その顔が干し柿のようにひからびてしまっている。あるいは人間の残骸というべきかもしれない。  老婆は薄明のなかにうずくまり、ただ黙りこくって、塔九郎の顔を見あげている。  塔九郎のほうも無言である。  波がひたひたと押し寄せるなか、塔九郎と老婆はいつまでもそうして、たがいの顔を見つめあっていた。  老婆の表情にはなにか狂気のきざしのようなものがあり、恐怖の色があらわになっていた。その眼の光はまちがいなく常軌を逸した者のそれであった。  そのことに気がつくと、塔九郎は優しい声で、 「おれに用か」 「これよりさきは行かれぬほうがよい」  老婆は嗄《しやが》れた声でいった。 「これよりさきは物怪《もののけ》が棲《す》むわい」 「ほう」  と塔九郎は微笑した。 「疑るかや」 「なんの、おれが疑るものかよ」 「なにゆえに笑うのじゃ」 「おれは」  塔九郎はまた嬉しそうに笑う。 「物怪が好きなのさ」 「なにを愚かな」  老婆は怪鳥のように声をはりあげ、 「狐狸《こり》のたぐいではないぞよ、まことに人外の化生《けしよう》であるわい」 「ほう」 「またそのように笑う、物怪を侮《あなど》ればついには命を落とそうわい」 「その物怪はどのようなわるさをいたすのかな」 「人の精気を食らい、はては死にいたらしめるということじゃ」  と老婆は叫ぶようにいった。  おりしも吹きすぎていった風に、老婆の白髪は乱れ、薄明のなかにおぼろげに浮かびあがるのが見えた。 「死者をさながら生者のようにあやつるとも聞いた」 「死者を生者のように……」  はじめて塔九郎は笑いをおさめ、その眼をするどい光が過《よぎ》った。 「これよりさきには行かぬことじゃ」  老婆は繰り言のようにいい、 「行けば、死ぬるぞよ」 「おばばどの」  塔九郎は老婆の顔を見すえて、 「その物怪のために、どなたかお身内がご不幸にあわれたのではないか」 「…………」  老婆はなにか衝撃をうけたような表情になり、その顔が醜く歪《ゆが》んだ。そして葦の茂みのなかにヨロヨロとあとずさると、泣くような声でいった。 「倅《せがれ》じゃ」 「倅どのがいかがなされたのだ、物怪のために落命なされたか」 「おう、死んだのなら、死んだのならあきらめもつこうが」 「そうではないのか」 「あさましや、戦《いく》さに斃《たお》れた倅は物怪に魅入《みい》られて、成仏《じようぶつ》もできずに、この潟をさまよっておるのじゃ」 「成仏もできずに……」 「魔性《ましよう》の女に魅入られおってな、精気を吸いつくされて、死におったわい。あげくのはてに墓をやぶったのじゃ。墓をやぶって、土のなかより這《は》いだしてきたのじゃ」  またひとしきり風が吹き、凍付《いてつ》いたような残光のなかに大きく葦がうねって、水面《みなも》にゆっくりとしわがひろがっていくのが見えた。 「死ぬのは恐ろしゅうない」  老婆は唇を震わせて、 「恐ろしいのは極楽往生できぬことじゃ。死んで、あさましくも未練を残し、この世の修羅《しゆら》をさまようことであるわい」 「…………」  塔九郎はなにか痛ましいものでも見るように、老婆の顔を見つめていたが、やがてわずかに頭を下げると、そのままゆっくりと歩きはじめた。 「これほどいうてもわからぬか」  その背に、老婆は吠えつくように、 「物怪《もののけ》に殺されるぞよ」 「おれは死なぬさ」  塔九郎の声はむしろ快活でさえあった。 「死ぬれば身のしあわせ、死ねずに鬼と化し、この世をさまようことになろうぞ」 「おばばどの」  ふりかえった塔九郎の眼は、なにか沈痛な色をたたえていた。 「おれはいまも生きながら鬼と化し、修羅の世をさまよいつづける境涯であるのだ」 「…………」  塔九郎の顔を過《よぎ》った凄絶ともいえる孤独の翳《かげ》に、一瞬、老婆は言葉をうしない、その場に立ちつくした。  塔九郎は眼がふと和《なご》んで、 「倅どのの名をきかせてはもらえぬか」 「弥市《やいち》」 「弥市どのか、憶《おぼ》えておこう」 「なにゆえにそのようなことをお尋ねになるのじゃ」 「縁あって、めぐりあうようなことでもあれば」  塔九郎は渺茫《びようぼう》とひろがる空と海に眼を向けた。 「供養《くよう》してさしあげよう、とそう思うたまでのことさ」  贄《にえ》塔九郎は背にあかあかと夕陽を負い、潟の浜辺を歩んでいく。  燃えのこった夕陽が浜を染めつくし、地に熟して、点在しているはまなしの実を、血のように赤く滴《したた》らせているのだ。  氷見湊《ひみみなと》からはなれて、このあたりには人家もなく、潟の葦の茂みがただ風に揺れているばかりである。  氷見は能登半島のつけ根に位置していて、海に面し、南・西・北の三方を山に囲繞《いじよう》されている。  永禄《えいろく》のこのころ、越後の上杉謙信は京にのぼろうとして、越中にたびたび攻《せ》め入り、能登と越中の境にある郷土氷見は、戦火の絶えたためしがない。  いまはとりあえず武田信玄に背後をおびやかされて、上杉も出兵をひかえているが、いずれは怒濤《どとう》のように押しよせてくるにちがいない。  ——そのときにはこの静かな浜もまた血ぬられることになるのであろうか……  塔九郎はなにか痛ましいような思いに駆《か》られている。  このあたりは現代では十二町潟《じゆうにちようがた》と呼ばれているが、永禄のころもやはりその名で呼ばれていたのであろうか。現代の十二町潟は狭く、小さな潟にすぎないが、文政《ぶんせい》年間の記録によれば、当時の十二町潟は長さ二・七キロ、幅は一・二キロメートルにもわたる広大なものだったという。その文政年間よりもさらに二百五十年あまりも以前の永禄の世、おそらく十二町潟はただ水と浜とがとりとめもなくひろがっている湿地帯であったにちがいない。  その湿地帯に孤影を曳《ひ》き、塔九郎はゆっくりと歩を進めていく。  すでに夕陽も褪《あ》せて、暮れ残った西の空が澄んだあい色に沈んでいた。  この潟には蜻蛉《とんぼ》が多く、その微光のなかをしきりに飛びかっている。  ふいに足元から、黒い羽の蜻蛉がおびただしく飛びたち、高く、低く、塔九郎の体にまつわりつくようにして、舞いはじめた。  塔九郎の腰より白い光芒が抜き放たれた。すかさず一閃《いつせん》し、目にもとまらぬ早さで右に、左に空《くう》を撃って、次の瞬間にはピィーンと澄んだ響きを放ち、太刀はふたたび腰に収まっている。  もう塔九郎にまつわりつく蜻蛉はいなかった。  黒い羽を散らせて、蜻蛉たちが舞い落ちていくなか、塔九郎は刀の柄《つか》に手をかけたまま、ジッと葦の茂みを凝視している。  波が押し寄せているとも見えぬのに、葦の茂みが左右に揺れているのだ。  そしてザワザワと葉擦《はず》れの音がして、血にまみれた手が見えると、その手が葦の茎をつかみ、やがて一人の男がゆっくりと岸に這いあがってきた。  旅の商人《あきんど》のようななりをしているが、その手に小刀を持っていた。黒い小袖はズタズタに裂けて、全身が朱に染まっている。  なにより塔九郎の眼をひいたのは、その男の面貌であった。  頬は削《そ》げ、眼窩《がんか》がどくろのように落ちくぼんでいる。たとえ虫の息とはいえ、生きている人間の顔ではない。  男は塔九郎には見向きもしないで、ズルズルと泥のうえを這い、ようやく体の向きをかえると、葦の根をひたしている水に、自分の顔を写した。 「ああっ」  そして悲痛な声をはりあげた。 「わが顔をとられた」  男はふいに蓑虫《みのむし》のように身をまるくすると、小刀を逆手《さかて》に持ちなおし、それを自分の顔に突きたてた。  うす闇のなかに鮮血がとび散り、男は絶叫した。  あまりの苦痛に獣のように吠え、男は泥のうえを転げまわりながら、それでも二度、三度と、自分の顔を傷つける。血のどぶどろがゆっくりとひろがっていった。 「こ、殺してくれっ、彼奴《きやつ》らが追ってくる、ひとおもいに殺してくれえっ」  立ちあがり、血まみれの顔をふりあげて、男はそう叫んだ。  あまりのことに、さすがの塔九郎もなす術《すべ》を知らず、手をこまねいて、ただ呆然《ぼうぜん》としている。 「殺してくれえ、お慈悲じゃ」  お慈悲じゃ、お慈悲じゃ、そう喚《わめ》きつづける男の声は、すでに狂人のそれであった。  その狂人がくわっと真っ赤な口をあけて、やにわに小刀をふりかざすと、塔九郎に向かって、突進してきた。  やむをえぬ、そう思ったときには、すでに塔九郎は反射的に動いていて、剣を抜きはらいざま、男の体を胴薙《どうな》ぎにしている。  血しぶきを撒《ま》き散らし、悲鳴さえもあげずに、男はそのまま水のなかに落ちていった。男が喚《わめ》いたとおり、まさしくこれは慈悲の一殺であったにちがいない。  塔九郎は剣尖《けんさき》を天に向け、八双《はつそう》にかまえたまま、鞘《さや》に戻《もど》そうとはしない。  いや、戻せないのだ。  体のなかになにかふくれあがってくるものがあり、それをぎりぎりと撓《た》めて、すべて剣尖の一点に集めている。雑念をはらい、ただ必殺の意志だけを氷のようにするどく研《と》ぎ澄ましているのだった。  それでもひしひしと迫ってくる妖気を押しかえすことができない。  葦の茂み、氷見の海からなにか瘴気《しようき》のようなものがたちのぼってくるのを感じる。それは朝靄《あさもや》のように葦のそよぎに揺れ、海面の波だちに乱される。ひめやかに、しかし確実に迫ってきて、ゆっくりと頭上に渦を描《えが》き、塔九郎を押し包むようにして、のしかかってくるのだ。  殺気、というのではない。それは人間の意志とは隔絶した、なにかまったく異質な気配《けはい》であり、やはり妖気とでも呼ぶしかないようなものであった。  あの老婆は物怪《もののけ》のことをなんといったか。  ——人の精気を食らい、はては死にいたらしめるということじゃ……  塔九郎のひたいにブツブツと細かい汗が噴きだしてきた。  塔九郎が八双にかまえているのは、八岐《やまた》の大蛇《おろち》を討ちはたしたという十拳剣《とつかのつるぎ》をうちなおしたものである。ありとあらゆる�魔�を討ちはらう、そう称されている十拳剣が、どうしたことかこの妖気をまえにしては、ただ押されるままになっているのだ。  例えていえば鍔《つば》ぜりあいをしているようなもので、人並すぐれた膂力《りよりよく》の持ち主であるはずの塔九郎が、ここでは後退しているのであった。  ふいに塔九郎はツツッと足をまえに運び、 「えいっ」  裂帛《れつぱく》の気合いをこめて、剣を上段からふりおろし、空を撃った。  そして、そのまま正眼にかまえる。  一瞬、妖気は乱れて、潮がひくように退《しりぞ》いていったのだが、すぐにまた塔九郎をあざ笑うように、ゆっくりと迫ってくる。  塔九郎は自分の体にのしかかってくる妖気の重みをはっきりと感じていた。その重みにうちひしがれそうになるのを、かろうじて堪《た》えているのだが、全身が痺《しび》れてきて、ふと心が萎《な》えるのをおぼえるのだった。  塔九郎は正眼から、ふたたび八双にかまえて、脇をひきしめるようにし、刀身を自分の体に引き寄せた。  ——もはや一刻の猶予《ゆうよ》もならぬ。  塔九郎はそう思っている。  このまま妖気に身をさらしていれば、精気をことごとく吸いつくされて、ついにはミイラのように朽《く》ちはてていくであろう。ここで勝負にでなければ、もう十拳剣をふるう気力さえも失《う》せてしまうにちがいない。 「————」  塔九郎は刀身をほぼ垂直にし、なかば眼を閉じるようにして、ひたすら自分のなかに剣気が充溢《じゆういつ》してくるのを待っていた。  しかしつい鼻先にまで迫っているように感じられていた妖気が、ふいにフッと消えてしまったのだ。  それこそ朝日に靄《もや》が追われるように、もう妖気はどこにも感じなくなっている。塔九郎は危うくたたらを踏みそうになった。そして驚いて眼を見張れば、そこにはむろん朝日など差しているはずもなく、ただ夜の闇がひろがっているのみであった。  塔九郎は呆然としている。  月は痩せているが、それでも月光を滴《したた》らせているらしく、風に葦の葉がそよぐと、銀色の光がわずかに波打つのが見えた。  氷見の海は暗闇に沈んでいる。  その闇のなかにかすかに櫓《ろ》をこぐ音がきこえてきて、やがて葦の茂みをかきわけるようにし、小舟の舳先《へさき》が迫出《せりだ》してきた。 「ほう、これは気の毒な、死んでおざるではないか」  そして野放途《のほうず》なまでに明かるい声がそう聞こえてくると、小舟から黒い影がヒラリと飛びたった。  諸国|行脚《あんぎや》の雲水《うんすい》のようであった。  わずかな月明かりのなかにも、その僧の異相がはっきりとわかった。  耳が異様に長い、耳たぶが首筋まで垂れ、顔が赤く、丸い。もう何ヵ月も円頂に剃刀《かみそり》を当てていないらしく、肩までたくしあげているつぎはぎだらけの黒衣とあいまって、まことにむさくるしい坊主であった。  その乞食坊主のうしろから、もう一人の男が降りてきた。  こちらのほうはまだ若い男だが、汚れた蓬髪《ほうはつ》をわらで結んで、破れた小袖を縄の帯で締めているという、やはり乞食同様のなりをしている。腰に何足か草鞋《わらじ》をくくりつけていて、裾《すそ》から伸びている脛《すね》が妙にヒョロ長いものに見えた。  若い男は臆病な質《たち》らしく、小舟から降りるとすぐに葦の茂みにうずくまるようにし、そこから眼のみを光らせて、塔九郎の様子をうかがっている。  乞食坊主のほうは屈託がなく、半身を水につけて死んでいる男のうえにかがみこむようにして、 「どれ、回向《えこう》してしんぜようか」  瓢箪《ふくべ》のなかの白い液を注《つ》ぎかけた。濁り酒であるらしい。  そしてぐびりと喉《のど》を鳴らして、自分もその濁り酒を飲むと、手の甲で唇をぬぐって、塔九郎のほうに眼を向ける。 「人はわしのことを耳法師《みみほうし》と呼び、連れのおとこのことを長足と呼んでいる」  坊主は塩辛声でそういい、 「おぬしがここらあたりに棲《す》まうという物怪《もののけ》であるのかな」 「ひとでござるよ」  塔九郎はおだやかに返事をする。 「ひとか、魔物か」  坊主はおくびを洩らすと、瓢箪《ふくべ》を差しだした。 「どちらでもかまわぬが、まずは一盞《いつさん》さしあげようではないか」     二  氷見《ひみ》の潟《かた》にはミズブキが多い。  夏から秋にかけて紫色の花を咲かせるこの水生植物は、葉のさしわたしが二メートルあまりにも達していて、それこそ潟の水面を覆《おお》いつくしている。  ミズブキという名の響きには古雅なあじわいがあるが(事実、これは古名である)、葉の表裏、果実の表面などには無数のトゲが生えていて、じつはその名から連想されるような可憐な植物ではない。  後年、十二町潟ではこれをジゴクノカマノフタと呼ぶようになった。  地獄の釜の蓋——  永禄の世にこの名で呼ばれていたとは思えないが、むしろジゴクノカマノフタの呼び名は、十二町潟に死霊がさまよっていた、この頃にこそふさわしいのではなかろうか。紫色の花を咲かせて、まさしく地獄の釜の蓋がひらき、死霊たちが地上にさまよい出ていくのだ。  その紫色の花を点々と水に映し、ミズブキを浮かびあがらせて、焚火《たきび》の明かりが岸辺に揺らめいている。  塔九郎が二人の男と野営をしているのである。  耳法師に、長足、むろん異名《いみよう》であろうが、耳慣れない名を持ったこの二人の男は、氷見から能登へ向かう途上、ふと思いたって汀磯《なぎさ》からこの潟へ小舟を乗り入れたということであった。  小舟は葦の茂る岸に舫《もや》い、これからさきは徒歩で旅するつもりなのだという。 「……乎敷《おう》の崎漕ぎたもとおり終日《ひねもす》に、見とも飽くべき浦にあらなくに、まあ、そんなところであろうかな」  耳法師は腹を揺するようにして笑う。  さきほどから濁り酒を飲みつづけ、耳法師は上機嫌のようである。塔九郎も長足もあまり飲もうとしないのだが、それをいいことにして一人で飲みつづけているのは、よほど酒が好きだからだろう。 「垂姫《たるひめ》の浦を漕ぎつつ今日の日は、楽しく遊べ言継《いいつぎ》にせむ——」  とも耳法師はいい、また笑った。  いずれも万葉集に収められている、氷見を歌った和歌であるが、塔九郎にその知識はなく、興味もない。  ただ旅の雲水にしては、耳法師がひどく物知りだとは思った。  このあたりには人の姿もなく、ただ荒涼とした湿地帯がひろがっているのみであるが、氷見湊《みなと》に出入りする船によって、氷見町はそれなりの賑《にぎ》わいを見せている。町の寺坊では説教があり、猿まわしや操《あやつ》り人形などの芸人の出入りも少なくないらしい。  あるいはこの耳法師もそうした芸人の一人であろうか、とも考えたが、塔九郎にそのことを詮索《せんさく》するつもりはない。  詮索されて困るのは、むしろ塔九郎のほうであろう。  自分は須佐之男命《すさのおのみこと》の血すじの者である、といっても、信じてもらえるはずがない。ましてや須佐之男命が退治《たいじ》た八岐《やまた》の大蛇《おろち》、その八つの首から生まれた物怪《もののけ》たちを滅ぼすために、こうして諸国を放浪しているなどと打ち明けようものなら、それこそ狂人あつかいされかねなかった。  じつは塔九郎が氷見へ来たのも、この潟に物怪が出没する、という噂を耳にしたからなのだが、そのことは黙っているほうが賢明というものだった。 「酒がなくなってしもうたわい」  耳法師は瓢箪《ふくべ》を逆さまにし、掌のうえに軽く叩くと、意地ぎたなく酒を舐《な》めた。 「耳法師さんはほんとうに酒がお好きなのでござりまするなあ」  長足が感心したように首を振る。 「この世に、ほかに気うつを晴らすものもあるまい。どうせ、この世は修羅じゃ、酔うて気ままにわたるのが利口よ」 「女子《おなご》というものもござりましょう」 「わしは女子には縁がない」 「お坊さまであらせられますからなあ」 「なに、枯れはててしもうたのよ。女性《によしよう》を抱いても、もはや精がつきたわい」 「これはまたご謙遜を」  耳法師と長足は声をあわせるようにして笑った。  この二人はまことに気のあった主従のようで、はたから見ていても微笑《ほほえ》ましい。塔九郎も思わず微笑を浮かべていた。  ふいに長足がヒッという声をだして、息を呑むようにして、笑いをとめた。塔九郎と耳法師の背後を見つめているその眼が、なにか一点に据《す》えられたようになり、しだいにその顔が泣き笑いのような表情になっていった。 「ひええっ」  長足が尻でいざるようにして下がり、その足が焚火の火を蹴った。  塔九郎と耳法師はふりかえり、舞いあがる火の粉のなかに、暗い影が立っているのを見た。  舞いあがった火の粉はゆっくりと降りてきて、風にはためくようにそのものを浮かびあがらせ、あるいは闇に沈めるのをくりかえしていた。  蓬髪が黒々と風に舞い、その眼は洞《ほら》のように空《うつ》ろで、顔は窶《やつ》れきって、土気色を呈している。なにか薄墨《うすずみ》の衣のようなものを着ているが、その衣が何であるかは見さだめがたく、片手に笠を下げ、まとっている蓑《みの》が風にはたはたと騒いでいた。  生きている人間ではない。 「死霊《しぶと》だあ」  と長足がひきつったような声をあげた。  まさしく死霊であった。  その眼窩の奥の眼には光がなく、体そのものも頼りなく、宙に揺らめいているように見えた。なによりその男の体から吹きつけてくるように感じられる冷たい風は、地獄の業風《ごうふう》そのもので、断じてこの世のものではありえなかった。  塔九郎はこうした怪異には慣れている。剣を引き寄せ、片膝を立て、その男を見つめながら、さきほど斬り捨てた男にどこか似ているようではないか、とそんなことを思う余裕までもあった。  乞食に似た境涯ではあっても、さすがに仏門に身をおいているだけあって、耳法師は死霊の出現にもいささかも怯《ひる》んだ様子はなく、ただ訝《いぶか》しげな眼を向けている。 「もうし——」  と死霊がささやくような、すすり泣くような声で呼びかけてきた。 「そこにおられる御僧《おんそう》におたのみしたいことがござりまする」 「なんであろうかな」  耳法師は穏《おだ》やかに微笑さえしている。 「これより潟へお下りになられるのであれば、その浜に住むおなんというものに、言伝《ことづて》をつたえてはいただけませぬか」 「それは造作もないことであるが、どのような言伝であろうか」 「わたくしは氷見の海の漁師でおざりましたが、一年まえに落命し、ごらんのようなあさましい姿になりはててござりまする。ご足労ではありまするが、おなんというものにこの蓑笠|手向《たむ》けてくれよとそう仰せつけくださりませぬか」  死霊の姿がふわりと揺れると、いつのまにかその蓑が脱げて、笠といっしょに、ゆっくりとそれを差しだした。 「これ、長足よ、なにを震えているのだ」  耳法師はなにか揶揄《からか》うような声でそういって、 「死霊どのより蓑と笠を頂戴せぬか」 「へ、へい」  長足は震える声でそういい、裏返しになった亀の子のように、地面でもがいている。 「なにを遊んでおるのだ」 「これはまた心外な、耳法師さまのお言葉とも思われませぬ。それがし遊んでいるのではござらぬわ。こ、腰が——」 「おう、腰がどうした」 「抜けましてござりまする」 「阿呆が」  耳法師は苦笑した。 「腰が抜けたのをなにやらたいそうに威張りおるわ」 「…………」  塔九郎がつと立ちあがると、死霊に歩み寄っていき、平然とした表情で、その手より蓑と笠を受けとった。そして死霊の洞《ほら》のような眼を覗《のぞ》き込むようにして、 「言伝《ことづて》をつたえ申すのは、いともたやすいことではあるが、この蓑笠がそなたのものだというたしかなる証拠《しるし》がなくば、そのおなんなる女性《によしよう》も納得せぬのではあるまいか」 「わが名を伝えてくだされよ」 「はて、そなたの名は」 「弥市《やいち》」  あっ、と塔九郎が心中おどろきの声をあげたときには、葦の茂みがザアッと波打って、死霊は風を捲《ま》いたように、急速に遠ざかっていった。  闇のなかにその蓬髪がおぼろに舞いあがり、薄墨の衣がひらめくと、次の瞬間には、その姿はフッと消え失せていた。  あとにはただ闇のなかを、びょうびょうと風が吹きわたるのみである。 「死霊《しぶと》だあ」  だいぶたってから、長足が地に尻餅をついたまま、間の抜けた声で、またそう叫んだ。  塔九郎と耳法師は焚火の燃えさかる火に、あかあかとその姿を映《は》えさせて、いつまでもその場に立ちつくしていた。  長足が松明《たいまつ》をかかげて、闇のなかを歩いている。  いまにも泣きそうな顔をしているのは、よほど死霊が恐《こわ》いからであろう。 「大丈夫でござりまするか」  と、くどいほど何度も念を押すのを、 「恐れるなや」  耳法師が笑って力づける。 「そう申されてもむりでござりまするよ」 「ほう、どうしてだ」 「長足めは耳法師さまのように放胆ではおざりませぬゆえ」 「なんの、わしが放胆であるものかよ」  耳法師はまた笑って、 「死霊など可愛いものではないか。わしが恐れているのは、生きて動いているひとのほうであるわい」 「ひとも恐ろしいが」 「おう、恐ろしいがいかがいたした?」 「長足は死霊も恐ろしゅうござりまする」 「はは、それは念の入ったことじゃ」  耳法師はそういうと、空《から》の瓢箪《ふくべ》を口の下に当て、唇を尖《とが》らせるようにした。そして、そのままスタスタと歩いていく。  べつになにも聞こえてこなければ、変わった様子もない。  しかし耳法師のあとを歩いていく贄《にえ》塔九郎の、獣のように夜目のきく眼には、耳法師が進んでいくにしたがって、虻《あぶ》や羽虫が狂ったように逃げていくのが、はっきりと見えていた。そのために夜にこうして松明をかざしても、虫がまつわりついて、困《こう》じるということがないのだ。  ——妙なわざをつかう……  どうしてか塔九郎はこのことを憶えておいたほうがいいと思った。  臆病な長足が死霊が出た場所で、野宿をするのを嫌がり、それならばいっそこのままおなんという女の家に向かったほうがいい、と三人の相談がまとまったのだった。  茫漠とひろがっているように見えても、またいかに歩きづらい湿地帯が続いているにしても、男がその気になれば、ものの三時間もあれば突っきることのできる潟である。  おなんという女の家もたやすく見つけることができるはずだった。  潟を進んでいくにつれて、葦の茂みのなかに種子《しゆじ》(梵字《ぼんじ》)を刻んだ石碑が置かれてあるのが眼につくようになり、なかば崩れかかった五輪塔が水のなかに傾いていたりもした。  そしてミズブキを敷きつめたようになっている潟のほとりに、一軒の小さな家が建っているのが見えた。  掘立《ほりたて》の柱に貫板《ぬき》を通し、竹の小舞《こまい》をつくって壁を塗って、板で屋根を葺《ふ》いた、なんの変哲もない家である。  ここがおなんの家にちがいない。  戸を叩き、訪《おとな》いを乞うと、はたして顔を出したのは若い女であった。  女は小柄で、腰も細く、いかにもはかなげに見えた。女の着ている小袖が、夜目にも白く浮かびあがっていて、なにか真っ白な蝶が翅《はね》をとじて、眼のまえに現われたかのように感じられた。  おなんどのでござろうかな、とまず耳法師はそれをたしかめた。 「はい、わたくしがおなんでございますが——」  訝《いぶか》しげな眼を向けるおなんに、耳法師が死霊と出会い、蓑と笠を手向けてくれるよう頼まれたことを話しはじめた。  女の黒い眸《ひとみ》がしだいに大きく見ひらかれていくのを、手燭《てしよく》の明かりのなかに見、塔九郎は自分がその眼に胸の疼《うず》くような欲情を覚えているのを、ふと意識していた。     三  塔九郎は夢を見ている。  乳のように濃い霧がたちこめるなか、塔九郎はどこまでも落ちていくのだ。  あるいはただよっているというべきかもしれない。方向感覚が失《う》せて、たちこめる霧は上下の別さえ曖昧《あいまい》にしている。  塔九郎は奇妙に遠いような気持ちになっている。このままでは困るな、と意識の片隅で考えてはいるのだが、なにかそのことを本気で案じるのも煩《わずら》わしい。なにもかもが面倒になり、どうにでもなれと投げやりな気持ちになっているのである。  塔九郎の体がゆっくりと回転した。  反射的に身をこわばらせようとしたが、その体を支えるべきものがなにもないことに気がつき、苦笑して、そのまま回転するにまかせた。  塔九郎が回転するにつれ、霧が乱れて、そのつぶが口のなかに入ってくる。予想していたような冷たさは感じない。奇妙になま温かく、口のなかにねっとりとよどむような感覚があった。不快な味ではなく、なにやら懐しささえ覚えるようである。  ——はて、これはなんの味であったろう?  塔九郎は夢のなかで首をひねった。  そのとたん、口のなかのなま温かいものが溢《あふ》れだしたように感じられた。霧のようなものがふいに濃密さを増し、体に重くからみついてくる。眼も、鼻も、口も覆《おお》われ、その重さに耐えかねて、ゆっくりと沈んでいきながら、塔九郎はようやくそれが何であるのかを知った。  ——これは女の乳ではないか。  塔九郎は狼狽した。  甘ったるいような乳の味に、塔九郎は頭が痺《しび》れたようになり、急速に自分の力が萎《な》えていくのを感じていた。無力感はけだるいような倦怠感に変わっていき、手足のさきがしだいに重くなってくる。  夢のなかの塔九郎、そして臥床《ふしど》に身をよこたえている現実の塔九郎も、ひっきりなしになま欠伸《あくび》を洩らしているのだ。  もうなにを考える気力もなく、ただひたすら怠《だる》いのみである。  体にからみつく乳が凝集していき、しだいに女体のかたちをとりはじめたのにも、さしておどろかない。ほう、そんなものか、と無感動に納得するだけだった。  いまや塔九郎の体にからみついているのは、乳ではなく、なまめかしい女の裸身であった。  おなんである。  ハア、ハアと息をあえがせ、足をからませるようにして、腰を密着させようとする。隆起した乳首が痛いほど押しつけられてくるのが感じられた。おなんはいやいやをするように首を振り、もどかしげに塔九郎の襟《えり》をひらいて、裸の胸にその唇を這わせた。  おなんは猫のように舌を鳴らし、塔九郎の胸の汗を舐《な》めまわした。女の舌の冷たく、濡れた感触が、痺れるような陶酔を呼び起こした。  自分のものが猛々《たけだけ》しくなってくるのを感じて、塔九郎は不覚にも声を洩らした。 「ああ」  うねりを繰り返すような快楽《けらく》に、正体もなく酔いしれていた塔九郎の耳に、その自分の声が思いがけず大きく響きわたった。  塔九郎は愕然《がくぜん》とした。  一瞬、はっきりと意識をとりもどした塔九郎の頭のなかを、なにか閃光がひらめくように、あの老婆の言葉が過《よぎ》っていった。  ——魔性の女に魅入られおってな、精気を吸いつくされて、死におったわい……  弥市《やいち》はこのおなんという女に殺されてしまったのだ。 「うむ」  今度は呻《うめ》き声をあげ、塔九郎は必死に気力を奮い起こそうとした。ひたすら念をとなえて、その念にわれとわが身を凝集させ、気力の充実をはかる。そしてこの淫夢《いんむ》から自分を解き放とうとした。  しかしおなんは白い泥のようにからみついて、いっかな離れようとはせず、それどころか快楽《けらく》のうねりはいっそう激しさを増してさえくるようである。  おなんのしなやかな手が伸びて、塔九郎の全身を愛撫する。  彼女の手が触れるたびに、そこが熱でも孕《はら》んだように、甘やかな快感に疼《うず》いて、塔九郎の陶酔を深いものにしていく。自分もまた全身が白い泥のようにトロトロと溶けくずれていくのを感じるのだ。  塔九郎は懸命に気力を奮い起こそうとするのだが、それがかえって快楽をつのらせていくようにすら思われた。 「ううむ」  塔九郎は脂汗《あぶらあせ》をかいていたが、それが快感によるものか、それとも苦悶によるものなのか自分でも判じかねていた。  このときふいに快楽の圧力が弱まったように感じられた。塔九郎の体にからみついていた手足から力が抜けて、おなんの姿もフッと薄くなったように見えた。  胸のうえにのしかかってくる巨大な岩を押しのけるほどの力を必要とした。  事実、夢のなかの女を押しのけるのに、現実の塔九郎の腕の筋肉が、古木の節《ふし》くれのように膨《ふく》れあがった。おおうっ、とほとばしるような気合を発して、臥床《ふしど》のうえに身を起こしたのだ。そしてすかさず十拳剣を引きよせると、片膝をたて、身がまえる。  灯明皿《とうみようざら》を持つおなんの姿が、闇のなかに白く浮かびあがっていた。  おなんは塔九郎が剣をとったのにも、いささかも動じる色を見せない。塔九郎の姿をうえから覗《のぞ》きこむようにし、悲しげな顔をして、ただ臥床の脇に佇《たたず》んでいるのみである。 「雨霧をしのがせて貰《もろ》うたのは、まことにありがたいが」  と塔九郎がいった。 「おなんどのにはいささか悪ふざけがすぎるのではあるまいか」 「…………」  それにはなにも答えようとはせず、ツツッと後ずさりしていくと、おなんはふいに身をひるがえした。  おなんは土間へ走り、その体が板の間とのあいだを仕切っている藁《わら》ごもに触れて、それが音をたてて地に落ちた。そして土間の隅にうずくまったおなんの姿を、灯明皿の明かりのなかに浮かびあがらせる。 「弥市——」  おなんは泣いていた。  塔九郎たちが死霊より託された蓑と笠とを胸に抱くようにし、しきりに弥市の名を呼びながら、すすり泣いているのだ。  塔九郎はおぼろげながら事情が理解できたような気がした。  老婆は自分の倅《せがれ》が魔性の女に魅入られた、といったが、それがどのようなことであったのか、さきほどの淫夢から、塔九郎にもおよその察しはつく。  おなんは男の精気を吸いとる不思議なわざをつかい、その意味ではたしかに魔性の女といえるだろう。ただしこれは老婆が考えもしなかったことであろうが、弥市がおなんに魅入られたのと同じように、おなんのほうでも弥市を慕《した》わしく思っていたようである。そうでなければ弥市の死霊が蓑と笠を(自分の母親にではなく)おなんに託すこともなかったろうし、おなんが弥市を慕って泣かなければならないいわれもあるまい。  ——おれはそのために精気を吸いつくされるのを免《まぬか》れたのではないか。  塔九郎は思う。  重くのしかかっていた快楽が、ふいに軽くなったように感じられた瞬間があったが、あのときおなんはやはりああして精気を吸いつくし、死にいたらしめた弥市のことを想いだしたのにちがいない。  それがおなんのなかに思わぬ動揺を誘い、結果として塔九郎の命を救ったのではなかろうか……  それではこの女が潟に棲むという物怪《もののけ》なのであろうか、と考えて、塔九郎は憮然《ぶぜん》としている。  たしかに男の精気を吸いつくすのは怪《け》しからぬふるまいには相違ないが、八岐《やまた》の大蛇《おろち》の八つの首から生まれた物怪たち、その眷属《けんぞく》の一人と考えるには、あまりにこの女は優しすぎるようである。塔九郎はすでに出雲《いずも》と飛騨《ひだ》において、二匹の物怪を退治ていて、八岐の大蛇より生じた妖怪がいかに恐ろしいものであるか、骨身に染《し》みて理解している。その物怪たちと比較してみると、  ——このおなんという女はちがう。  そう思わざるをえない。  やれやれ、無駄足であったか、と塔九郎は嘆息した。 「ひびさま——」  それまで土間の隅でうずくまり、ただすすり泣いているばかりであったおなんが、そうくぐもったような声でつぶやくのが聞こえてきた。  ひびさま、とは何のことであろうか、それを訝《いぶか》しく思い、塔九郎はおなんの背中を凝視した。  おなんのすすり泣く声はもう聞こえなくなっている。しばらくはうしろ姿の細い肩が震えていたが、それもすぐに見えなくなった。  灯明皿の明かりのなかに、おなんはゆっくりと立ちあがり、胸に抱いていた蓑や笠が土間のうえに落ちていった。  そして灯明皿を掲《かか》げ持つようにして、おなんはふりかえったのだが、その顔を見て、思わず塔九郎は息を呑んだ。  おなんは右手で能面を顔に当てている。  ひたむきに骨にくい入るようにして削《けず》りあげられた能面で、窶《やつ》れきった顔に、眼窩《がんか》の落ちくぼんだ眼は、まさしく塔九郎が斬り捨てた男のそれであり、また死霊《しぶと》の顔そのものでもあった。  それは、〈痩男《やせおとこ》〉の能面だった。  能の四番目物のなかで�善知鳥《うとう》�とか�阿漕《あこぎ》�などといった曲目に用いられる能面で、成仏しない亡霊が苦しむさまを写したものである。  やや俯《うつむ》いているおなんの黒髪が、ふかぶかと〈痩男〉の額を覆《おお》いつくし、その眸《ひとみ》を翳《かげ》らせていて、いかにもこれは亡霊の顔にちがいない、とうなずかせるものがあった。  これまで〈痩男〉の能面など数えきれないほど見たことがあるはずの塔九郎が、その場に立ちつくしてしまったのは、〈痩男〉を顔に当てたおなんの姿に、やはり地獄の亡霊を重ねあわせて見てしまったからだった。  おなんの背後に黒々とした地獄のくちがひらいたようにも感じられ、塔九郎は言葉もなく、ただ立ちすくんでいるのである。 「ひびさま」  ともう一度おなんは呼びかけると、顔を上げて、虚空《こくう》に向かい、なにか凍付《いてつ》いたような声でいうのだ。 「このお役目あまりに重すぎて、わたくしにもはや耐えられそうにありませぬ。なにとぞお解きはなしくださりませ。お願いでございます」  狂したか、と塔九郎は思った。  この女はだれに向かって呼びかけているのか? 「解きはなしを願うのは難しかろう」  ふいに背後から耳法師の穏《おだ》やかな声が聞こえてきた。 「なにさま物怪《もののけ》というものは執念がふかいでな。ひとたび寄人《よりびと》にとり憑《つ》けば、容易なことでは離そうとはせぬ。ひとが死ぬか、物怪が死ぬか、いずれかであろうよ」  闇のなかからゆっくりと現われた耳法師は、おなんが詰めてくれた瓢箪《ふくべ》の濁り酒をぐびりと飲みほして、やあ、これも空《から》になってしもうたか、と悲しそうな顔になった。そしてまたおなんのほうに向きなおり、 「さて、そのひびさまであるが、それはひびむねただのことであろうかな」  それを聞くと、おなんは後ずさり、急に身をひるがえすと、家を飛びだしていった。  耳法師は大口をあけて笑い、顔を仰向《あおむ》かせると、 「これ、長足よ、あの女のあとを追えやい」 「嫌でござりまする」  天井のほうから声が降ってきた。声は震えている。 「臆《おく》するなや」 「長足めは臆病者でございますれば」 「女ひとりではないか」 「堪忍《かんにん》してくださりませ」 「行かぬか」  耳法師の声が険《けわ》しさを増し、音は聞こえてこないが、なにか天井をあわただしく走るものの気配が伝わってきて、その気配がフッと絶えた。  またひとしきり笑い声をあげると、耳法師はゆっくりと塔九郎に顔を戻した。 「さて、おぬしともすこし話をせねばならぬようであるな」  そのとき家のなかをさあっと風が吹きわたって、板葺《いたぶき》屋根が雨で鳴りはじめた。 「長足はうさぎとおなじよ、臆病者ゆえ、足が速い。馬にも負けぬ速さであるわい……臆病者ゆえ戦場での武功は望めぬが、そのかわりにどのような修羅場へ追いやっても、かならず生きて帰る。なまじ功名心がないだけに、そこらの葉武者《はむしや》よりもよほど役に立つ。わしは調法しているのさ」  雨音がつづくなか、耳法師の笑いを含んだ声が聞こえている。  雨は湿地帯に降りそそぎ、一面のジゴクノカマノフタを叩いている。雨足が白く霧のようにけぶって、潟が墨絵のように淡く浮かびあがって見えるのは、夜明けが近いからかもしれない。  耳法師がさきにたち、塔九郎と二人、雨のなかを歩いているのである。  ときおり耳法師が茂みのなかにうずくまるのは、草の茎を折ったりして、長足が残していった目印をたしかめているからにちがいない。  うずくまる耳法師の墨染めの衣も、肩がしっとりと雨に濡れていた。  そんなことをしながらも、耳法師の話はつづいている。 「おぬしが成仏させてくれたあの男はな、嗅一《かぎいち》というて、やはりわしの手下《てか》の者よ。長足と違うて、敏《さと》い男であるゆえ、探索に走らせたのだが、それが仇《あだ》になってしもうた。物怪《もののけ》が相手では、修業をかさねた業《わざ》もものの役に立たなんだのであろう、不憫《ふびん》なことをしたわい」  塔九郎が背後に迫ると、耳法師はべつに足を早めたようにも見えないのに、蝶が飛ぶように、フワフワと雨のなかを舞って、決して近づかせようとしない。塔九郎をふりかえるでもなく、声を荒げるでもない。まるでその体の重さを持たないかのような、軽々とした身のこなしで、さしもの塔九郎も耳法師の背に隙《すき》を見いだせないでいた。 「耳法師どの」  塔九郎は苦笑し、その背に声をかけた。 「もう素性《すじよう》をあかしてくだされてもよろしいのではないか、耳法師どのは——」 「諜者《ちようじや》さ」  耳法師はあっさりといった。 「いずれの諜者であらせられるのか」 「さて、それは」  さすがに耳法師は苦笑して、 「いかにわしでも打ち明けるのはちとはばかられる。いかようにも推察されるがよろしかろう」  まずは上杉であろうか、と塔九郎は考えている。  このころ上杉謙信は越中、能登の攻略に熱心であった。 「わが主は神仏への帰依心《きえしん》あつく、物怪の跳梁《ちようりよう》をおよろこびにならぬ。ましてや死者をもよみがえらすというこの地の物怪、うち捨てておいたのでは、ひとのためにならぬとお怒りになって——」  耳法師の口調はあいかわらず穏やかで、屈託がない。 「われらがこうして遣《つか》わされたのであるが、ひびむねただ聞きしにまさる化け物で、ほとほと困《こう》じはてておるわい」 「そのひびむねただとはどのような物怪でござるのか」 「氷見《ひみ》宗忠ともいう。面打ちである」  と耳法師はいい、ふいに笑いだして、 「いや、面打ちの氷見宗忠なる御仁《ごじん》はたしかにおざったが、はたしてその仁が物怪であるかどうか、なにさま氷見宗忠はとうに死んでおられるはずのおひとなのでな」 「…………」  あっけにとられている塔九郎をふりかえって、こういうことなのだ、と耳法師は口調をかえていった。  氷見宗忠は〈痩男《やせおとこ》〉、〈痩女《やせおんな》〉の能面を創出した面作師《めんづくりし》で、のちに能面の十作《じつさく》のひとりに数えられるようになる。  氷見の上日寺《じようにちじ》の僧侶であったとも、法華僧《ほつけそう》であったとも伝えられていて、観音堂にたてこもり、痩せた男、痩せた女の面のみをひたすら刻《きざ》みつづけたという。  北越の風雪に耐えながら、地獄の住人だけを打ちつづけて、ついには痩面というものを完成させた氷見宗忠は、たしかに天才的な面作師であったろう。  しかしこの氷見宗忠という人物がどんな男であったのか、ほとんどわかっていない。  宗忠という名が、僧侶としてふさわしくないため、ほんとうに僧籍にあったのかどうか、疑問視するむきも少なくない。  また氷見という姓も、晩年、京都に移り住んでから、若かりしころの日々《ひび》に思いを寄せて、書いた銘だという説もあり、事実、日氷と記されているものも、かなり多く残されているのだ。  ひび、あるいはひひと呼ぶのか、日氷、氷見を姓にしていても、おそらくその血筋を継いだ氏《うじ》ではなかったかと思われる。  身分もわからず、名前もわからず、はなはだしきは氷見宗忠の活躍した時期も永和《えいわ》年間だという説と、文亀《ぶんき》から永正《えいしよう》の初期だという説があり、この二説にはじつに百年以上ものひらきがある。  氷見宗忠はたんに怪人物というにとどまらず、かなり妖怪性を帯びた人物といえそうである。  もちろんこれは現代人たるわれわれの知識で、耳法師にそこまでの知識はないが、氷見宗忠がかなり昔の人間であるらしいということは知っていて、 「むろんいまの世に棲む氷見宗忠は、高名な面打ちの氷見宗忠と同一人物ではあるまいよ。おなじひびの名を継ぐ血筋のもので、祖とおなじく面作師となり、ついには死霊《しぶと》づくりの怪異のものとなりはてたに相違ないわい。同一人物と考えたのでは、あまりに長命にすぎて、つじつまがあわぬゆえな」  そうであろう、とは塔九郎も考える。  しかし塔九郎が退治た飛騨の物怪、飛騨かえりぐも城の城主が異常な長命の主だったことを想い起こすと、あるいは氷見宗忠もただ一人ではないのか、という疑念を捨て去ることができないでいる。  ——おなじことではないか……  と塔九郎は思う。  いずれにしろこの潟に棲む氷見宗忠が、八岐《やまた》の大蛇《おろち》の斬り落とされた八つの首より涌《わ》きでた物怪の一匹であることは、まず間違いないように思われる。高名な面作師の氷見宗忠と同一人物であると否《いな》とにかかわらず、贄《にえ》塔九郎はただ討ちはたしさえすれば、それでよいのだ。 「妙なめぐりあわせでござる」  塔九郎は微笑して、 「それがし飛騨においても、諜者と顔をあわせる仕儀になり申した、出雲においてもしかり、よくよく乱波《らつぱ》衆、耳法師どののおなかまとは縁がふかいようでござるよ」 「はて」  耳法師の口調が妙に諧謔味《かいぎやくみ》を帯びたものになり、 「はたしてそれをただのめぐりあわせと考えてもよいものかどうか」 「…………」  その謎めいた言葉に、塔九郎は訝《いぶか》しげな眼を向けたが、肉づきのよい背中を揺らすようにして、耳法師はあいかわらず雨のなかを歩いているのみであった。     四  ここはどのあたりであろうか。  夜明けまえの薄明のなかに葦《あし》の茂みが揺れているのが見える。  潮が満ちてきて、入江の水が逆流し、葦の原をひたしているのだ。  降りつのる雨のために、いっそう潮のかおりが強く感じられるようである。  このあたりはもともとが寺域であったのがうち捨てられたものらしく、潟に迫っている斜面に墓地があり、石仏が転がっていて、水のなかには石塔が残っている。  葦が生い茂り、ミズブキを浮かべて、波がひたひたと押し寄せている岸辺には、なかば朽《く》ちかけた観音堂がうずくまるようにして建っているのが見えた。  薄暗がりのなかに雨靄《あまもや》がたちこめて、観音堂も墓地も燐光に縁どられたように、わずかに蒼く浮かびあがり、なんとはなしに妖気を帯びているように感じられる。  その岸辺に寄せる水に、両手両足をあめんぼのように伸ばし、うつぶせになって、プクリと浮かんでいる男がいた。  長足である。  その髪の毛は藻のようにひろがり、体は波が押し寄せるままに揺れているが、手足はぴくりとも動かない。  ずいぶん長いあいだ、そうして浮かんでいる。  ふいに葦の茂みをかきわけるようにして、耳法師が姿を現わし、ズブズブと膝まで水のなかに入っていくと、長足の襟をつかんで、無造作にその体を岸まで引き上げた。 「これ、起きぬかや」  と耳法師は声をたかくして、 「死んだ真似はもうせずともよいぞよ」 「————」  長足はあえぎとも、声ともつかぬものを洩らして、眼をあけると、むくりと身を起こした。耳法師の顔を見て、なにか照れたように笑うと、水に濡れた犬のように、ブルンと顔を振った。  耳法師も笑い声をあげ、塔九郎のほうを振りかえると、 「臆病もここまでくると生得の芸といえるのではないか」 「あのおなんという女子《おなご》はそこにある堂に入っていきましてござります」  長足は肩をすぼめるようにして、心細げな声をだし、 「そこで堂をのぞいてみたのでござりまするが、なかにはなにやら恐ろしげなるものが潜んでおざった。それで——」 「死んだ真似をいたしたか」 「はい、とりあえず」 「はい、とりあえずはよかった。いかにも長足らしいわい」  と耳法師は笑って、塔九郎を見た。 「さて、いかがいたしたものであろうかな」 「化け物退治」  塔九郎はみじかくいうと、観音堂に向かって、歩を進めていく、その背に、耳法師が、 「わしは後詰《ごづ》めにまわろうわい」 「…………」  塔九郎が静かにふりかえるのに、 「わしは兵法をいささか遣《つか》う。坊主ではあるが、あいにく法力を持ちあわせておらぬのでな……だが、物怪《もののけ》がわれら兵法遣いの間尺《ましやく》に適《あ》うとも思われぬ、後詰めにまわったほうが役に立つであろうよ」 「兵法を?」 「これよ」  耳法師は衣より短刀を取り出した。  塔九郎はうなずき、 「では罷《まか》る」  急ぎ足で、今度こそ観音堂に向かった。  藁葺《わらぶ》きの観音堂の階《きざはし》を一跳びでのぼって、塔九郎は観音とびらをひらいた。  観音堂には模糊《もこ》とした暗闇がたちこめていた。  塔九郎はとびらを閉めると、その闇のなかにすかさず身を沈めた。外の薄明かりのなかに影法師をさらしていれば、物怪の格好の餌食《えじき》となるにちがいない。  塔九郎は、闇に眼が慣れるのを待った。  藁葺きの屋根をうつ雨音が、ひそひそと胸に染むように聞こえている。  闇のなかに石を打つ音が聞こえてきて、堂内が急に薄明かるくなった。  灯明に火を点じたのは、おなんであった。  おなんは両膝で立ち、袂《たもと》で火を覆うようにして、しばらくジッとしていた。その淋しげな、窶《やつ》れた横顔が、闇のなかに浮かびあがった白い花のように見えた。  おなんの背後に蚊帳《かや》のように薄い垂れ幕が下がっているのが見え、その向こうに何者かが潜んでいる気配があった。  塔九郎はそれが何者であるか見さだめようとして、視線を凝《こ》らしたが、垂れ幕は灯明の火を受けて、ただその向こうに潜むものの淡い影を浮かびあがらせるのみで、ついに姿を見きわめることはできなかった。 「わたくしはかつて歩き巫女《みこ》でござりました」  ふいにおなんはそう口をひらいたが、それが塔九郎に向けたものなのか、それとも彼女自身に向けた内省の声であったのか、にわかには決めかねた。 「わたくしの母も歩き巫女でございます。歩き巫女は死者を祈祷《きとう》し、口寄せをするのが生業《なりわい》とはいえ、ときには色を売ることもいたさねばなりません。若いあいだはよいのです。年老いた歩き巫女がどんなに惨《みじ》めな姿をさらさねばならぬものか、わたくしは母の姿を見て、それをいやというほど思い知らされたものでした」 「…………」  塔九郎はうずくまったまま、わずかに刀の柄頭《つかがしら》を押し上げている。  自分が聞いているのが藁葺き屋根をうつ雨の音であるのか、それともおなんの声なのか、それすらはっきりとは意識していない。ただひたすら物怪を討つまでに、おのれの気迫が満ちてくるのを待っているのだ。  おそらく自分の体からは殺気が陽炎《かげろう》のように揺らめきたっているはずなのに、垂れ幕の向こうにいるものが、いささかも反応を示そうとはしないのが、塔九郎には無気味でもあり、歯がゆくもあった。 「色香を失った歩き巫女は、乞食《こつじき》も同然でござりまする。若いときにはあさましいまでに母のまわりを嗅ぎまわっていた男たちも、老いた母にはあらわに嫌悪の情を示し、痩せ犬のように追いやるのでござりまする。ついには行きだおれて、薦《こも》をかぶせられ、死んでいる母のむくろに泣きすがりながら、幼いわたくしは男というものを憎み、この世に老いるということがあるのに震えおののいたのでした」  朽ち葉が吹き寄せられるような音が聞こえてきて、垂れ幕の向こうにかすかになにかが蠢《うごめ》く気配があった。  灯明のあかりが逆光となり、垂れ幕の向こうはけぶるような闇のなかに沈んでいる。それに比してこちらの姿があかりのなかに浮かびあがっているのは、明らかに塔九郎のほうが不利であった。この態勢では相手のほうが動いてくれなければ、塔九郎にはどうにも戦うすべがない。  ——なぜ動こうとせぬのだ。  塔九郎は胸のなかで吠えていた。 「そのようなわたくしにひびはつけ入ったのでござりまする。わたくしの生業が口寄せをすることにあったのも、ひびには幸いしたようでした。わたくしはひびの功力《くりき》を得て、男どもの精気を吸いつくし、脱け殻のようになりはてた男を、ひびの手にわたす。わたくしは老いを避《さ》けることができ、ひびは男たちの顔を奪う、ひびに顔を奪われた男たちは、成仏することもできず、死霊《しぶと》となって、この世の無明《むみよう》の闇をさまようほかはないのでござりまする。思えば、いかにもあさましき所業でござりました……」  それまで御詠歌のように単調であったおなんの声が、ここにきてふいに乱れた。こみあげてくる激情を堪《こら》えるように、しばらく沈黙していたが、やがて衣より能面をとりだすと、さも愛《いと》しげにそれに頬ずりする。そしてまた話しはじめるのだ。 「わたくしはなんと罪ぶかい女なのでござりましょう。生まれてはじめて、心底より恋しいと思うた男までも、ひびのもとにやってしまったのござります。あまりにも心弱く、どうしてもひびの命に背《そむ》くことができなかったために……そのために弥市《やいち》は、弥市は……」  それではその能面はあの弥市という男の、奪いとられた顔なのであろうか? おなんのすすり泣く声を聞きながら、さすがに塔九郎は背筋を冷たいものが駆け抜けていくのを感じていた。  垂れ幕の向こうにまたなにかが蠢《うごめ》く気配があった。  おなんはつと立ちあがると、袂《たもと》で能面をくるむようにし、ゆっくりと歩き寄ってきて、塔九郎のまえに身を沈めた。そして塔九郎のふところにその能面を差し入れると、必死の眼差《まなざし》を向けて、 「どうか、この面《おもて》をお受けとりくだされますように……そして弥市の讐《あだ》を討ってくださりませ。弥市と、わたくしの讐を……」  ふいに風もないのに垂れ幕が大きく捲《まく》れあがった。塔九郎はとっさにおなんを突きとばし、垂れ幕に小柄《こづか》を投げた。  ふわり、と垂れ幕は宙に舞い、ゆっくりと落ちていって、その向こうにうずくまっている男の姿を浮かびあがらせた。  老人、である。  それはよほどの老齢のようだ。  柿色のなにか道服《どうふく》のようなものを着て、五尺にも満たない体を猿のように折り曲げて、奇妙に底光りのする眼で塔九郎を睨《にら》みすえている。右手に鑿《のみ》、左手に能面を持ち、膝のまわりには木屑《きくず》が散っていた。  落ちた垂れ幕にあおられた灯明の火が、大きく、小さくなり、老人の影をなにか奇怪な蠕動《ぜんどう》動物のように、壁のうえに伸びちぢみさせている。  背後に女の逃げる気配がしたが、見向きもせず、塔九郎はスラリと剣を抜きはなっている。 「おのれがひびか」 「ひびは異名であるが」  老人は嗄《しやが》れた声でいった。 「いまさら名乗りをあげても詮《せん》がない。死んでいくものへのせめてもの供養《くよう》じゃ。うぬには異名で呼ぶのを許してくれようわい」 「ひとの顔を奪い、死霊《しぶと》をつくる物怪《もののけ》、人並みの口をきくではないか」 「ふふ、素直に死んでゆけばよいものを、死霊になってさまようは、そのものに妄執があるからではないか。われに咎《とが》はないわい」 「おのれのそのひからびた身にはもはや妄執のわだかまる水気もあるまい」  塔九郎は片膝立ちの姿勢のまま、スッと刀を正眼にかまえて、 「心やすらかに、地獄に落ちてゆくがよい」 「地獄に落ちていくは、贄《にえ》塔九郎、うぬのほうであろうよ」 「おれの名を知っているのか」 「おう、知らいでか」  老人は木枯らしのような笑い声をあげて、 「うぬがことは卦《け》に出ていたわい。なにもかもお見通しよ。須佐之男命《すさのおのみこと》の末裔《すえ》、贄塔九郎、八岐《やまた》の大蛇《おろち》のわが同胞《はらから》を二体までも斃《たお》したのは、上首尾であったが、うぬの運も氷見でつきたわい。地獄に落ちて、わが同胞の二岐の大蛇と、いま一度仕合うがよい」 「おのれこそ地獄で、いや、あの贄塔九郎は強い男であった、と同胞と酒をくみかわすがよかろう」  塔九郎は上段に刀をふりかざし、片膝立ちの姿勢から一気に斬り込んでいこうとしたのだが、 「おう、よい顔じゃ」  老人のその言葉にそのまま姿勢を凝固させた。  機先を制されたというのではない。老人の声には名状しがたい冷たい響きがあり、それが一瞬、塔九郎に斬りかかるのをためらわせたのだ。 「よい顔じゃ、よい顔じゃ」  老人はなにか歌うように節をつけて、そう唱えながら、鑿《のみ》でコツコツと面《おもて》を刻みはじめた。  塔九郎は刀をふりかざしたまま、動くことができない。鑿を打っている老人の姿には隙《すき》というものがない。いかなる兵法者もおよばない凄味《すごみ》のようなものが、ある種の妖気さえ帯びて、老人のまわりにたちこめているのである。 「ううむ」  と塔九郎は呻《うめ》いた。  老人は塔九郎の苦悶を知らぬげに、しきりに鑿をふるっている。そしてこれもまた歌うような口調で、 「よろこべや、塔九郎、うぬは死霊《しぶと》にはならぬ。死霊となるにはあまりにうぬという男の気迫が強すぎる。うぬの顔を面にうつしたときが、うぬの死ぬときでもあるわい。幽界をさまよう業苦もなく、地獄に落としてやるが、せめてものわが慈悲と思え」 「…………」  塔九郎は脂汗《あぶらあせ》を流している。  わが顔をとられた、あの嗅一《かぎいち》とかいう男の悲痛な叫びが、いまわがものとなって、塔九郎の胸に迫ってくる。顔をとられたときが、自分の命のつきるときだと、それがはっきりわかるのだ。  それがわかっていて、塔九郎は金縛《かなしば》りにあったように、ピクリとも身動きできない。  老人の面打ちのわざはまさしく神域にまで達していた。面を打つ鑿が、そのまま塔九郎の命を削《けず》る鑿でもあるのだ。老人が面を打ち進むにつれて、ついには塔九郎は灯芯が燃えつきるように滅んでいかざるをえまい。 「おなんに精気を吸いつくさるれば、腑抜《ふぬ》けのまま、楽に死ぬことができたものを、なまじ性根を剛毅に持っていただけに、要《い》らざる苦しみをせねばならぬのは、いかにも気の毒であるが」  老人はくぐもったように笑い声をあげた。 「おかげで、わしはよい顔をとることができそうだわい」 「————」  老人の持つ妖気は確実に塔九郎の心気を削《そ》いでいき、ついには刀を持つ手にもふるえが走るようになった。自分の顔が奪われて、嗅一や、弥市のように頬が削げ、眼窩《がんか》が落ちくぼんでいき、痩男のような顔貌になりはてるかと思うと、それがなにより忌《いま》わしい。  塔九郎は自分の体にからみつく、眼に見えない糸を斬ろうとするように、一撃、二撃、上段からすばやく刀を振りおろした。  しかし老人の呪縛《じゆばく》を断つことはできず、それどころかいっそう妖気は力を増したかのようにさえ感じられ、塔九郎は刀の重みにあえぎ声を洩らした。 「動くでない。動けば、面のかたちが崩れようぞ」  老人はもはや塔九郎をからめとったことに絶対の自信をもっているらしく、そんな叱声《しつせい》を放って、一心不乱に鑿《のみ》をふるっている。  面を刻む音がするどく、正確に堂内に響いている。会心の作になりつつあるらしい。鑿をふるいながら、老人は恍惚《こうこつ》とした表情になっていた。 「痩男、痩女は地獄をのぞいた亡霊の顔であるわい。なまなかな修業で彫れるものではない。いや、いかに修業をかさねたとて、生身《なまみ》の面作師《めんづくりし》に痩面《やせめん》が彫れるものかよ。痩面を彫りたくば、面作師自身が人外の化生《けしよう》として生きるほかはあるまい」  老人の声にもなにかに酔っているような、喜悦の響きがあった。 「わしはなんとしてもこの手で痩面というものを極《きわ》めたかった。地獄の亡者を生みだしたかったのだ。わが祖に氷見の宗忠というものがいたが、いや、あまり長う生きすぎて、もしかしたらそれはわしのことであったかもしれぬ、という気さえするのだが、そのものが刻んだ痩男、痩女、さすがに名人の手をしのばせるものはあっても、まだまだ甘い。地獄の亡者とはあのようなものではあるまいよ……礼をいうぞよ、贄塔九郎、うぬのおかげで、どうにかこのひびも得心のゆく痩面が仕上がりそうだわい」  塔九郎はもはや口をきく気力もない。刀を支えている手が痺《しび》れて、ついには瞼《まぶた》さえも重く垂れ下がってきた。  ——おれはここで死ぬのか……  しだいに薄れていく意識のなかで、塔九郎はそう覚悟を決めていた。  そのとき、なにか法螺貝《ほらがい》を吹くような音が聞こえてきた。  いや、それは現実に聞こえてきたわけではなく、聴域の外を鳴りわたる囁《ささや》きに似たものであったのだが、一瞬、ほんの一瞬、そのために堂内にみなぎっていた妖気に、ほころびのようなものが生じたのだ。  それが耳法師が瓢箪《ふくべ》を鳴らしているのだと気がついたのは後刻のことで、そのときの塔九郎はなにを考える間《ま》もなく、ただ体だけが勝手に動いている。 「ええい」  塔九郎はすかさず踏み込み、斜め上方にのび上がるようにして、剣を一閃させた。  灯明がすぱりと切れて、剣風に乗るようにして、宙を舞った。  それが老人の膝に落ち、火が能面に燃えうつった。おおっ、老人は魂消《たまげ》るような悲鳴をあげ、鑿《のみ》を投げ捨てて、能面を両手で掲げ持つようにして、おろおろと立ちあがった。  妖気は消え失せたが、塔九郎はこのまま堂内で戦うことの愚を、よく承知していた。  塔九郎は身を反転させ、観音びらきの戸に体をぶつけるようにして、雨のなかに転がり出ていった。     五  塔九郎は草のうえに転がりでると、片膝をついて、すぐさま向きなおり、剣尖《けんさき》を鶺鴒《せきれい》の尾のように、斜めにぴんとはねあげた。  もはや朝である。  しかし明かるくはない。  雨は降りつづいていて、潟も、墓地も、そして観音堂も、灰色のとばりのなかに塗りこめられている。雨は奇妙になま温かく、潟のうえには温気《うんき》がたちこめていて、それが体に纏《まつわ》りつくかのようであった。  観音堂の板びさしから雨の糸が間断なく滴《したた》り落ちていたが、それが見るまに色をかえていき、やがて血の雨となった。 「うむ」  塔九郎は呻《うめ》いたが、それが幻術《めくらまし》であることは間違いなく、怯《ひる》めば、なおさら物怪《もののけ》に乗ぜられるのみである。塔九郎は刀をかまえたまま、ぴたりと不動の姿勢を保っている。  血の雨は観音堂のかたちを崩していき、藁葺《わらぶ》きの屋根がおどろにふり乱した黒髪に、観音びらきの格子がうつろな眼窩にと、急速に変容していくのである。  そして額から血を滴らせている、どくろに渋紙をはりあわせたような、巨大な痩男の顔が、迫出《せりだ》すようにして雨のなかに浮かびあがってきたのだ。 「塔九郎、ようもわが苦心の痩面を傷つけてくれた。後生《ごしよう》恐るべしとは思わぬか」  と痩男は陰々たる声でそういい、 「われをかくも怒らせたからには、よもやこのまま生きて帰れるとは思うまいなあ」 「…………」  塔九郎は肩を引くようにして、ゆっくりと刀を下げていき、やがて剣尖を擦《す》るようにまでした。  ——太刀筋を見られてはならぬ。  そう思ったからである。  物怪が幻術のなかに自在におのれを隠すすべを心得ているのであれば、塔九郎もまた自分の刀術を隠さなければならない。さもなくば物怪のつむぎだす幻術にいいようにあやつられて、ついには自滅するほかはなくなるであろう。  幻術の一瞬の隙をついて、相手に斬りかかることでしか、自分に勝機はないであろうことを、さきほどの経験から塔九郎はよく知りつくしていた。 「来ぬか、塔九郎、料理してくれようぞ」  痩男の声にわずかに嘲弄《ちようろう》するような響きが混じった。 「来《こ》よ、来よ」 「————」  塔九郎はふいに跳躍し、下段から雨を擦るようにして、剣をはねあげ、痩男の額をざくりと斬った。  両断されたのは痩男の額ではなく、観音堂のひさしであった。  ひさしはクルクルと雨に舞う。  むろん巨大な痩男の顔は消え失せていて、そこにはもとの観音堂があり、ただ物怪の笑い声だけが雨をつんざくようにして、塔九郎の頭上に響きわたるのみであった。  地に降りたち、そのまま抜き身の刀を下げて、墓地のほうへ走りはじめた塔九郎を、物怪のやはり嘲弄するような声が追ってきた。 「たいそうな芸であることよ。こもり堂のひさしを斬り落とすまでになるには、さぞや血の滲《にじ》むような修行を積みかさねてきたのでござろうなあ」  もちろん塔九郎は気にしない。  塔九郎は幻術を幻術と知ったうえで斬りかかったのである。これをもって塔九郎がおのれの幻術に翻弄《ほんろう》されている、とでも思いこむようであれば、むしろ物怪のほうの敗因になるであろう。  塔九郎は墓地のなかに走りこみ、そこで身を反転させると、ふたたび剣をかまえた。  また下段のかまえである。  右の肩を引くようにし、右に低く下げた刀身を、一歩踏みだした左足、斜めになった半身で覆いかくすようにしている。  むろんこれも太刀筋を読みとられないようにするためであった。  観音堂をはなれて、物怪の妖気がいくらか弱まったのであろうか、降りそそぐ雨が急に冷たいものに感じられるようになった。  塔九郎は雨に衣を濡らしつつ、なかば眼を閉じるようにして、下段のかまえを持している。  ——雨が気持ちいい。  そして、この場合にそんなことを考えている。  塔九郎はまだ二十代に入ったばかりの多感な年ごろである。八岐《やまた》の大蛇《おろち》の物怪退治に人生を賭けて、緊張した日々《ひび》を送っている塔九郎だが、ふとこうしたおりに表われる素直な思いこそが、この若者のもともとの気性なのかもしれない。  五輪塔、土まんじゅうが雨脚《あまあし》に白くしぶいて、その雨音が塔九郎を包みこむように、周囲に満ちていた。  塔九郎がやにわに右足を進めて、なにもない空《くう》を斬りあげるのと、すぐ眼のまえにある土まんじゅうが火を噴くのとが、ほとんど同時であった。  剣風は、炎を捲《ま》いて、雨つぶのきらめきがくっきりと浮かびあがるのが見えた。  つづいて、背後の土まんじゅうが青白く火を吐いた。  塔九郎は跳躍し、そのまま五間ばかりを走り抜けた。一度、足もとの土まんじゅうが火を噴き、危うく踵《かかと》を焼きそうになったが、とびすさり、かろうじて難を避けた。  幻術《めくらまし》の火ではない。  現実に土まんじゅうが裂けて、青白い炎を燃えあがらせるのだ。 「ひとさし舞い候《そうら》え、贄《にえ》塔九郎どの」  ひびの笑い声が余韻を響かせて、頭のうえから降ってきた。 「この世の名残《なごり》に、ただ狂え」  やつぎばやに土まんじゅうは火を噴き、塔九郎は右に、左に宙を疾《はし》っている。  もちろん塔九郎にはどうして土まんじゅうが火を噴くのか理解の外にある。  あるいは雨のために生石灰《せいせつかい》などが自然発火し、それによって土中のメタンガスが爆発しているのであろうか。そう考えれば、これはたんなる自然現象にすぎないが、いかにしてひびがこれを操作しているのか、そのことだけは謎であり、やはりこれも幻術の範疇《はんちゆう》に入れるべきかもしれない。  自然現象にせよ、幻術の一種にせよ、眼のまえに炎が燃えあがれば、これを避けざるをえない。  塔九郎はくるくる舞いつづけている。  背丈よりもたかく、炎が舞いあがるのを、真っ向から斬りおろして、ようやく飛び越える。足をふみおろした地が、また青白く燃えあがり、身を投げだすようにして、間一髪、その炎から逃がれる……  そうしたことの繰り返しなのである。  塔九郎は蒼ざめて、脂汗《あぶらあせ》を流し、ただ炎から逃げまどうのに精一杯のように見える。  ひびの勝ち誇ったような笑い声が、長く尾をひいて、墓場に響きわたった。 「ちいっ」  またも足もとから噴きあがった炎に、顔面を焼かれそうになり、塔九郎は後ろざまに飛んで、地を転がった。  塔九郎ならではの体術であるが、これもいずれは力つきて、敏捷さを失うことになる。そうなれば猫がねずみを弄《もてあそ》ぶように、ひびの幻術になぶり殺しにされるだけであろう。  顔を焼かれそうになった塔九郎は、剣を引いて、一瞬、眼を閉《と》じた。  五輪塔、墓がありありと残像になって浮かびあがるのが見えた。 「————」  ある考えが胸をするどく切り裂くように過《よぎ》った。このとき、あるいは塔九郎は声をあげていたかもしれない。  眼をあけ、塔九郎は走った。  横っとびに、右に、左に地をふみ、そのたびごとに土まんじゅうが裂けて、炎を頭上たかく燃えあがらせた。塔九郎の眼に、噴きあがる炎が焼きつけられて、瞼《まぶた》を閉じたあともなお、それは残像となって白く渦を描《えが》いていた。  また眼を見ひらき、刀を頭上にふりかざして、走った。  炎、眼を閉じて、そして残像が。  ——見えた。  ひびの残像がはっきりと浮かびあがっていた。  なるほど、ひびは幻術によって、自分の姿を見えないように人に錯覚させることはできるかもしれない。しかし現実にひびの姿を見ている以上、確実に残像は生じるはずであり、それをも幻術にかけることは、いかにひびでもできることではない。  塔九郎は、そこまで筋道たてて考えていたわけではない。考えるよりもさきに、まず体のほうが動いていた。  塔九郎は疾風《はやて》の勢いで空に駆上がり、落ちるにまかせて、剣を上段からふりおろしていた。  ぎゃあ、墓地の茂みが血を撒《ま》いた。  塔九郎の剣は斜めにひびの鬢《びん》を削ぎ、肩を割《さ》いて、肋《あばら》まで切りおろしていた。そして地に降りたつや、すかさず身を反転させ、深々と喉《のど》を抉《えぐ》った。  膝が萎《な》え、塔九郎はしばらく草のなかにうずくまっていた。  塔九郎は雨に濡れそぼっていたが、また物怪《もののけ》を一匹|斃《たお》した、というよろこびが、その体のなかに滾《たぎ》っていた。いや、それも最初のうちだけで、ただ相手を斃すということにのみ費された情熱の不毛さが、やがて冷えびえとその胸を浸しはじめる。あるいはこれを虚無感というべきかもしれない。  ——おれはなんのためにこうまでして物怪を退治ねばならぬのか……  この暗く、やりきれない思いである。 「ほう、見事にひびをお退治になられたではないか」  と背後から耳法師の声が聞こえてきた。 「まずはめでたい」 「…………」  塔九郎は無感動な眼で、耳法師を見つめている。  耳法師の肩ごしに首を伸ばすようにして、恐る恐る長足が物怪のむくろを見ていた。 「供養をいたすは坊主の役目ではあるが、物怪に残り少ない酒を与えるのは、いかにも惜しい。いや、無駄というものであろうよ」  耳法師は笑い、瓢箪《ふくべ》の酒を飲んだ。 「耳法師どののご助勢をもってして、どうにか物怪をしとめることができ申した。礼の言葉もござらぬ」 「わしなどがなにを助勢できるものかよ。おぬしが一人でなしとげた仕事であるわい」 「いや、耳法師どのの瓢箪に助けていただかねば、むくろとなっていたのはそれがしのほうでござった」 「なに、そうしたものでもあるまいよ……瓢箪といえば、どうやらまたも酒が切れたようであるが」  耳法師はひとりごつようにそういい、意味ありげに塔九郎を見つめた。 「さて、そろそろと……」  塔九郎はうなずき、 「お相手つかまつろう」  へっ、というような声をあげ、長足が怪訝《けげん》そうな顔をしたが、すぐにその表情がこわばり、泣きそうな顔になった。そして、慌《あわ》てて二人から飛びすさる。 「案ずるな、長足よ。これはわしらのお役目とはなんのかかわりもないことでな。間諜ではなく、兵法者の耳法師の仕事であるわい」  耳法師は長足から塔九郎のほうにつと顔を転じて、 「さすがは闇の太守どの、気がついておざったか」 「耳法師どのも、鹿島神宮より贄《にえ》塔九郎を斃《たお》すべし、という神託をさずかった武芸者の一人であらせられるのか。それがしを斬れば、鹿島神宮の主祭神にして、武芸の神でもある武甕槌命《たけみかづちのみこと》の功力《くりき》を得て、兵法のわざ神技に達する、とそう託宣をくだされたのでござろうか」 「左様」 「耳法師どのにはそれをお信じになられるのか」 「信ぜずばなるまいよ」  耳法師はひょうげた声でいい、 「この広い天下《てんか》で、神託をさずかった兵法者たちが次から次におぬしと巡りあえるのこそ、そのなによりの証拠《しるし》ではあるまいか」 「…………」 「おぬしが物怪《もののけ》を討つのも、またわしらがおぬしを討とうとくわだてるのも、なにもかもが前世よりの宿縁であるわい。ひとが何をどうあらがっても、これに背くわけにはいくまいよ。わが鹿島社と、おぬしのかかわりのふかい出雲社とはな、古《いにしえ》より一枚の鏡の裏表のようなものであったというぞよ」 「…………」  これは塔九郎の理解のおよぶところではない。黙するのみである。  ただ耳法師がいうように、出雲と鹿島とはたしかに太古より深い関係を持っている。  鹿島神宮の主祭神|武甕槌命《たけみかづちのみこと》は高天原《たかまがはら》を代表して出雲に赴き、国譲りの交渉に当たっていることで知られている。  いや、そんなことよりもなによりも、この二つの社には超自然的ともいえそうな関係があるのだ。  出雲大社東経一三三度、北緯三六度、鹿島神宮東経一四一度、北緯三六度、さらにいえば熱田神宮東経一三七度、北緯三五度……太古にいかにしてこのような精密な測量技術が可能であったのか、国土の東西を結ぶ最長の線上に、日本の最大神宮、大社が、ほぼ同一緯度のうえに等間隔で鎮座されているのである。  さらにつけ加えれば、熱田社の尾張の国には織田信長が生まれている。  しかし塔九郎が信長を知るまでには、これからさき長い旅をつづけねばならず、いまはまだ耳法師の言葉さえ理解できずに、底ぶかい謎のなかにたたずんでいるのみであった。  耳法師はそんな塔九郎を、なにか痛ましげな表情で見ていたが、 「おぬしとは仕合いとうはないが、これも宿縁とあらば、いたしかたないわい」  やがてそういうと、ゆっくりと後ずさっていき、 「存分に斬り合おうぞ」  叫ぶなり、墨染めの衣をひるがえして、茂みのなかに姿を消した。  塔九郎はぴたりと正眼にかまえた。 「ひえっ」  長足も悲鳴をあげ、これもこけつまろびつしながら、茂みのなかに逃げこんでいった。  雨が降りつづいている。  いや、雨はあいかわらず弱々しく降りつづけているのに、雨音のみがしだいに激しくなってくるのである。  やがてはその音だけが強く塔九郎の耳を打つようになり、ほかにはもうなにも聞こえなくなる。  ——これは雨の音ではない……  塔九郎の胸を狼狽が過《よぎ》った。  耳法師があの瓢箪《ふくべ》を鳴らしているのにちがいない。  音はありとあらゆる気配をそのなかに塗りこめてしまった。耳法師がどこに潜んでいるのか、その剣気をさぐるすべがない。  塔九郎は剣尖を天に向け、八双にかまえると、最初はゆっくりと、しだいに早く、足を右から左に運び、やがてはざあっと草を鳴らして、横に走りつづけた。  しかし音はどこまでも追いすがってくる。  耐えかねて、立ちどまり、剣を右手のみで支えて、左手で耳を押さえた。だが手の肉を通して、やはり音は聞こえてくる。頭のなかで鳴っているのではないか、とさえ思えた。  ——これは負ける。  塔九郎は覚悟をさだめた。  瓢箪《ふくべ》の音があまりにもほかを圧して鳴り響いているために、逆にすべてが無音であるかのように感じられた。雨が地を叩く音も、葦が風にそよぐ音も、なにも聞こえてこない。静寂そのものであった。  もしかしたら、と塔九郎は思う。もしかしたらこの静けさこそ、人が死にゆくしるしであるのかもしれない。どうあがいても、この宿命からは逃がれられぬ……  塔九郎は微笑さえ浮かべていた。  ふいに葦の茂みの鳴る音が聞こえ、真っ黒な鳥が翔《か》け過ぎていくように、塔九郎の頭を越えていくものがあった。たしかにその黒い影から白い光芒が放たれるのを見た。胸に鈍い衝撃を感じもした。しかし塔九郎は身をひるがえしざま疾走し、その黒い影を背中より胴薙《どうな》ぎに薙いでいたのだ。  地に崩折れた耳法師の姿を見ても、まだ塔九郎はおのれの勝利を信じきれないでいた。  呆然《ぼうぜん》と、自分の腹を見つめた。  短刀が刺さり、わずかに揺れていた。  それを逆手に持ち、引き抜いた。ふところから二つに割れた能面が、草のうえにこぼれ落ちた。腹の筋肉に薄く血が滲《にじ》んでいる感覚だけが残っている。  あるいは弥市の死霊《しぶと》が救ってくれたのか、とも思う。しかし不思議によろこびの念は湧いてこず、ただ虚しさだけを痛いほどに感じていた。  長足が茂みから這いだしてきて、耳法師を抱き起こし、その顔を撫でた。 「お休みなさるがようござりましょう」  と長足は囁《ささや》くようにいった。 「もう瓢箪《ふくべ》の酒もつきましたゆえ」 「…………」  あそこによこたわっているのは自分であったはずなのに、塔九郎はそう考え、もうなにも思いわずらう必要もない耳法師に、ふと嫉妬めいたものさえ覚えるのだった。  塔九郎はふらつく足を踏みしめるようにして、潟のほうに歩み寄っていった。  そして岸辺にうずくまり、剣の汚れを洗いはじめた。  顔をあげ、塔九郎は沖のほうを見た。  ようやく雨があがりはじめたらしく、沖のほうにたなびいている雲に、薄く陽が差していて、水平線が茜《あかね》色に染まっているのが見えた。  その燃えたつような水平線に向かい、一人の女が遠浅の海をわたっていくのだ。  おなんである。  おなんはなにかに追いすがるかのように、両腕をまえに伸ばしていた。ときおりよろけるのが、いかにも自分の歩みが遅いのをもどかしがっているように見える。  塔九郎には、弥市の姿は見えない。  しかしおなんの眼には間違いなく弥市が映っているはずであり、遠眼にも彼女の姿がよろこびで満ちあふれているのが、はっきりとわかった。  おなんはどこまでも、どこまでも沖のほうへさまよい出ていき、ついには茜色の光のなかに溶けこんでいって、その姿が見えなくなってしまう。  塔九郎は冷たく凍《いて》ついた心を抱いて、ただその水平線のまばゆさに、眼を狭《せば》めているのみである。 第四話 甲州《こうしゆう》陽炎城《かげろうじよう》     一  黒い空が、吹きぬけるように晴れている。  月はなかったが、早春に消え残った雪が山巓《さんてん》をあわく浮かびあがらせていた。  空にちりばめられた星を背にして、赤岳《あかだけ》、横岳、阿弥陀《あみだ》岳、権現《ごんげん》岳などが、巨獣の背のようにつらなっている。その麓《ふもと》には甲斐の国がよこたわっているはずだが、いまはただ黒いよどみがひろがっているだけで、なにも見えない。  上空には、かなりつよく風が吹いているらしい。亜高山帯の原生林が、梢を震わせている音が、なにかの囁やきのように山に満ちていた。  その風に乱されながら、赤岳のあたりから煙りがたちのぼっているのが見えた。  いや、それを煙りと呼べるかどうか、この闇夜にその煙りは燐光のような青白い光を放っているのである。それは篝火《かがりび》の、あるいは焚火の煙りとははっきりと異質のものだった。炎の熱というものがまったく感じられない。月の光さえないというのに、暗い海をただよう漁火《いさりび》のように、ただ煙りだけが玲瓏《れいろう》と浮かびあがっているのだ。  そもそも甲斐の国をかこむこの山並みが、天と地を分かち、現世《うつしよ》のものとも思えない霊性を帯びている。そこにたなびく青白い煙りはなおさらのこと、なにか妖気のようなものさえ感じられるのだった。  しかし真夜中に、しかもこの山中においては、ただ梟《ふくろう》の鳴く声がときおり聞こえてくるばかりで、その妖煙に眼を向ける者はだれもいないようであった。  雪のうえに、なにか茶いろいものが動くのが見えた。跳ねて、うずくまり、そしてまた跳ねた。  ノウサギである。  ノウサギは二本足で立ち、鼻をピクピクとうごめかせている。  いまはまだ雪に覆われているが、その下に黒々とした土がよこたわり、春の草花が芽吹いているはずだった。ノウサギはその芽を食べようとしているのかもしれない。  ノウサギは鼻を突っ込んで、しきりに雪をかいていたが、急にその手を休めると、ピンと耳を立てた。  雪の降り積もった茂みをかきわけるようにして、ゆっくりと姿を現わしたものがある。  それは痩《や》せて、毛が剥《は》げおち、灰色に汚れたキツネだった。  ノウサギは反射的に逃げようとした。しかしキツネが身を低めるでもなく、全身をあらわにしていることに、ふと注意を惹《ひ》かれた。本来、野生の獣は好奇心がつよい。隙あらば襲いかかってこようと、つねに身を潜めているはずのキツネが、そうして姿をあらわにしているちぐはぐさが、フッと魔におとしいれたように、ノウサギの動きを阻《はば》んだのだ。  キツネは追おうとしない。ノウサギは逃げようとしない。  闇のなかに二匹の獣の姿がおぼろげに浮かびあがり、雪に凍りついたように、ただジッとうずくまっている。  人が見れば、あるいはこれをお伽話のような光景だというかもしれない。だが自然に生きる獣たちは弱肉強食の絶対則につらぬかれていて、そこにはお伽話などの入る余地はない。  キツネもノウサギも厳しく、長かった冬に飢えきっていて、その生態にそむきまでして、こうして真夜中に動いているのである。お伽話どころではない。文字どおり必死であった。  キツネがふいにフワリと舞った。  それは舞ったとしか表現しようのないしぐさであった。身をくねらし、ノウサギなど眼中にないかのように、あとずさり、飛びはねているのだった。  このときにこそノウサギは逃げるべきであったろう。だが臆病心よりも、やはり好奇心のほうが勝《まさ》っていた。ノウサギはわずかに身を震わせただけで、その場を動こうとせず、魅入られたようにキツネの舞いを見つめていた。  キツネはウサギを捕《と》ろうとするとき、ときにこうしたふるまいに出る。踊りを舞い、ウサギが油断した隙に、これを捕えるのだ。策というより、これも本能に組みこまれた動作なのであろうが、こうしたことがキツネは人を化かす、という俗説のもとになったのかもしれない。  キツネは舞うとみせかけて、やにわに身をひるがえして、ノウサギに襲いかかった。  雪が捲《まく》れあがったように、散った。  キツネはこのとき自分がノウサギを捕えたと思ったはずである。  だが雪が吹き流されたとき、そこにはもうノウサギはおらず、忽然《こつぜん》とひとの姿が現われたのだ。  ケン、とキツネは一声|啼《な》いた。  キツネはほとんどパニック状態におちいったといっていい。なにがどうなったのかわからない。ただ逃げなければ、という思いが、そのあるかなしかの意識をつらぬいて、反射的に一メートルあまりもとびあがっている。  するとそれに呼応するようにして、相手のひとのほうも軽々ととびあがり、ほとんどキツネと同時に、フワリと雪のうえに降りたった。  あるいはその男がすいとひろげた銀扇が、キツネの意識になにか魔力のようなものでもおよぼしたのかもしれない。  キツネはその場に呪縛されたように動けなくなってしまった。 「稀人《まれびと》も御覧ずらん。月星は隈《くま》もなし——」  その男は口のなかで、そうつぶやき、ニヤリと笑った。 「と申しては嘘になるが、これには眼をつぶってもらわねばなるまいなあ」  そして雪のうえでゆるゆると舞い、かつ謡《うた》いはじめたのだ。   所は潯陽《しんよう》の、酔の内の酒盛、猩々《しようじよう》舞いを舞おうよ——  能の所作《しよさ》にかなった舞いとはいえない。その男の身のこなしは軽く、酔態をたくみに模倣して、いかにも滑稽な舞いであった。  その猩々舞いのたくみさ、おもしろさには、野生の獣の強固な警戒心さえ融《と》かすものがあったようだ。  キツネはなにかにとり憑《つ》かれでもしたかのように、その男の舞いを見つめていたが、ついに耐えかねたのか、ユラユラと体を揺らしはじめたのだった。  そして踊りだす。  ノウサギを捕えるために、踊っていたキツネが、いまは人間の舞いのたくみさに虜《とりこ》になり、あとずさり、前進し、とびはねるのをくりかえしているのだ。  キツネの眼にはひとはひととしか映らない。いや、いまはそれすらも消えうせて、ただその滑稽で、玄妙な舞いだけが、なにか独立した生き物のように、キツネには意識されているのかもしれなかった。  だが見るべき者が見れば、その男は忍者にちがいない、と見破ったであろう。  擦《す》りきれた装束に、獣の皮のようなものをまとい、つか巻の切れた脇差を差している。武士とも樵人《きこり》ともつかない姿だが、その体重がないかのような、軽やかな身のこなしは、常人のものではない。  瞼《まぶた》が重くたれさがり、茫洋とした、とらえどころのないその表情が、なにより忍者に特有のものであった。忍者は他者に感情を読みとられるのを嫌う。優れた忍者は、死に臨《のぞ》んでも、平然として、表情ひとつ変えようとしないという。  ほのかな雪明かりのなかに、忍者とキツネが舞いつづけている。  これもまたお伽話の一情景めいていたが、キツネとノウサギの舞いがじつは弱肉強食の死闘であったように、忍者とキツネの舞いにもやはりその底流に、べつの死闘が隠されていたのである。  忍者とキツネがフワリと跳躍し、宙でかけちがって、それぞれ場所を入れ替え、雪のうえに降りたった。  降りたったその場で、一方の足を軸にし、忍者は独楽《こま》のようにくるくるとまわって、持っている銀扇をゆっくり上下させた。  足もとから粉雪がもやのように舞いあがって、闇のなかにひろがっていった。   影もかたぶく、入江に枯れ立つ、足もとはよろよろと——  忍者はまわるのをやめると、二、三歩あとずさり、   弱り臥《ふ》したる——  ふいに膝をついて、銀扇で顔を隠した。  雪が地の上を這い、流れ去って、そこにうずくまり、印をむすんでいるねずみ色の忍び装束を着た男の姿を浮かびあがらせた。  男は、念を凝らしている。隠形《おんぎよう》の術である。おのれが雪と闇のなかに融《と》けこみ、一切の気配を絶っていることを信じきっている。その半眼に閉《と》じた表情には、いささかの動揺の色もなく、自分の姿があらわになっているのさえ気がついていないようだ。  これを過信、と呼んでは、その男にとっては酷になるだろう。男はなかば眠った状態にあったが、これは隠形の術に入ったときにはつねにそうであり、まさか自分が銀扇の男の舞いに幻惑されて、(キツネがノウサギを捕るときそうであるように)催眠状態におちいっているとは想像もしていないにちがいないからだ。   枕の夢の、覚めると思えば——  銀扇の男はやおら立ちあがった。その腰から稲妻のように脇差がほとばしった。  雪のうえにうずくまっていた男の顔が割れて胸まで両断された。木偶《でく》を斬るようなものだった。男は声もなく、のけぞり、雪のうえに崩れていった。   泉はそのまま、尽きせぬ宿こそ、めでたけれ——  銀扇の男はなにごともなかったように、そう謡い、雪のうえで留拍子《とめびようし》を踏むしぐさをして見せた。  闇のなかから、何人かの狼狽の声が湧き起こった。けっ、不覚な、はやしめが、むざむざ斬られおって、怒りに震えた声が、そう聞こえてきた。 「ほう、この男がはやしであったか」  男はすかさず脇差を逆手に持ちかえ、するするとあとずさった。 「まさしく、しずかなること林のごとく、声もたてずに死んでくれたわい」  しゃっ、という息を放つ声が聞こえてきて、雪のなかから、男めがけて一すじの刺股《さすまた》がくりだされた。  男は難なくそれをかわした。  とびすさり、またとびすさり、身をひねりざま、背後の茂みを斬りあげる。枯れ枝がとび、雪が舞いあがって、鮮血が散った。うめき声をあげて、茂みのなかから鞠《まり》のように男の体が転げ出るのが見えた。  ざあっ、と雪の粉《こ》をはらいつつ、刺股を持った男がとびあがってきて、一度、二度と突きを入れてきた。  銀扇の男はひらひらと舞うようにそれをかわしている。  茂みから転げ出てきた男は、ようやく体勢をととのえ、片手だけで杖《じよう》をかまえた。もう一方の手で肩をおさえている。その男の体からは鉄さびに似た血のにおいが、たちのぼっていた。  鋼《はがね》を打つ音が鳴り響き、闇のなかにたかく刺股《さすまた》が舞いあがった。  刺股を払いのけられた男は、狼狽を隠しきれず、逃げるようにして、雪のうえを転がった。 「げ、幻阿弥《げんあみ》っ」  その声がなかば悲鳴のようだった。  幻阿弥と呼ばれた男は、ぱちりと銀扇を閉《と》じて、それをふところに収めた。そしてあらためて脇差をかまえる。小面憎いほどの余裕を持ち、ニヤリと笑うと、 「さんき忍びの闇《やみ》狼煙《のろし》、いやいや、見事なものでござるなあ。この幻阿弥《げんあみ》、ほとほと感服つかまつった」 「…………」  二人の男は声もない。  もともと忍者の刀術にそれほどの差があろうはずはない。ただ彼らのほうは闇狼煙と呼ばれる戦法で陣をかためて、幻阿弥のほうはそれに追い込まれると見せかけ、逆にこれをおびき寄せた。忍びの業《わざ》でやぶれたことが、動揺をまねき、彼らはあきらかに精神的に幻阿弥に圧迫されていたのだ。  一人が斃《たお》され、一人が傷を負っている。幻阿弥の嘲弄《ちようろう》にも、かえす言葉がないのが当然かもしれない。 「引導を渡していただこうか」  と幻阿弥が声をかける。 「かなわぬまでも、この幻阿弥、力のかぎりお相手つかまつろうわい」  またしても嘲弄である。  感情の動きを抑制する修行を積んでいるはずの忍者たちが、さすがにその表情に怒りの色を過《よぎ》らせた。  刺股を奪われたほうの男が、耐えかねたように刀を抜きはらい、 「痴《し》れた奴」  大きく跳躍し、上段から一撃を放った。  幻阿弥はひらひらと舞った。  すかさずもう一人の男が走った。その男の肩を踏み台にし、鞠《まり》のようにはずんで、男の体がまた宙に跳ねあげられた。そして頭から落ちていきざま、幻阿弥の胴を逆手から薙《な》ぎあげた。  忍者の刀術はしぶとい。この二人、幻阿弥の挑発に乗ったようにみせかけて、二段がまえで仕掛けてきたのだ。  だが、それもむなしく宙を薙《な》ぎ、雪を舞いあげただけで、二人の体は積みかさなるようにして、ドウと崩れ落ちている。  幻阿弥はとびちがえるようにして、位置をかえ、すかさず反転すると、逆手にした刀のつかを両手で持ち、もがいている二人の男のうえに、大きく躍りあがった。 「けえっ」  悲鳴が聞こえ、血しぶきがばさりと茂みをはたいて、雪のうえに撒《ま》かれた。  血を撒き、雪に転がったのは、しかし二人の忍者ではなく、幻阿弥のほうだった。さすがにすぐに起きあがり、刀をかまえたが、脇腹を押さえた指のあいだから、血が噴きだしているのが見えた。  それまで白く薄雪を刷《は》き、ただ転がっているかに見えた岩がむくりと動いて、 「ふふ、ぬかったな、幻阿弥よ、さんきの忍びは風林火山、四人いるのを忘れたかよ」  それこそ岩のようにぶあつい体躯の、大男がゆっくりと身を起こした。 「うぬの舞いにうかうかと乗せられたは、たしかにはやしの不覚、かぜやひをいいようにあしらったつもりであろうが、笑止なり、幻阿弥、動かざること山のごとし、このわしがひかえておるわい」 「…………」  幻阿弥の顔からは血の気が引いていた。  やまは風林火山を統《す》べる棟梁で、その手ごわさはほかの三人の比ではない。傷を負い、そのやまを迎え撃つだけでも難問であろうに、さらに背後にはかぜとひ、二人の忍者が迫っているのだ。 「幻阿弥」  とやまがなおも声をかける。 「うぬが贄塔九郎《にえとうくろう》という男の手引きをしていることは、当方にはわかっているのだ。贄塔九郎は、須佐之男命《すさのおのみこと》の末裔《すえ》を僣称し、後生《ごしよう》恐るべし、八岐《やまた》の大蛇《おろち》のご一族をことごとく討ちはたす所存と聞いた……うぬが姿を現わしたからには、贄塔九郎も追って、姿を見せるに相違ないわい。贄塔九郎、わがお屋形《やかた》様のお命を殺《あや》める所存であろうが、風林火山がそうはさせぬ……幻阿弥、贄塔九郎はいまどこにいるのだ? 平らかに申せば、責め殺しだけは堪忍《かんにん》してくれようわい」 「贄塔九郎様はいずれは闇《やみ》の太守《たいしゆ》様になられるおひとである」  幻阿弥はかすれた声でそういい、 「いわば、おぬしらにとってもお主《しゆ》になられるおひとではないか。道鬼ごときに要らざる忠義だてをして、うかつにことをかまえれば、悔いを残すことになろうぞ」 「なにを白痴《こけ》な……闇の太守様は八岐《やまた》のご一族より、お選びあるがおきてではないか。なにゆえあって塔九郎ごときに闇の太守様にのしあがる道理があろうものか。なあ、幻阿弥よ——」 「なんじゃい」  この場合に、幻阿弥はひどく間延びした返事をした。 「うぬは伊賀国服部の伊賀平氏の流れをくみ、観阿弥、世阿弥の血をひきつぐ曲舞《くせまい》衆の末裔……われらもいまでこそ甲斐さんきの乱波《らつぱ》であるが、もとはといえばやはり伊賀の出自であるわい。もとをただせば神変大菩薩(役《えん》ノ小角《おづぬ》)をおなじく祖とあおぐ仲間ではないか。おなじ仲間が争うても、詮《せん》がないとは思わぬか」 「思わぬな」  幻阿弥は蒼白な顔にニヤリと笑いを浮かべて、 「伊賀の曲舞衆はな、貴種であるわい。われらが祖は聖徳太子様の諜者御色多由也《おいろたゆや》、うぬらとは身分がちがう」 「けっ、いわせておけば」  幻阿弥のほざきようがよほど肚《はら》に据えかねたのであろう。かぜとひがやにわに背後から襲いかかってきた。  その風圧を背に迎えたとき、幻阿弥は反射的に雪を蹴り、海老《えび》反りに背を反らして、宙を舞っている。おそらくこのとき幻阿弥は臍《ほぞ》を噬《か》む思いであったにちがいない。やまが飛び道具で仕留めようと思えば、いまの幻阿弥ほど絶好の的はない。幻阿弥は死を覚悟したはずである。  だがやまはなにも仕掛けてこようとはしない。  幻阿弥は茂みに落ち、雪を撒《ま》いて、枯れ枝を折りながら、声ひとつあげずに、そのまま崖を転げ落ちていった。  それを知りながら、三人の忍者たちは動こうともしない。  冬の旅支度に身をかため、編笠をかぶった武士が、ひたひたと雪のうえを歩んでくるのだ。その骨格、身のこなしから、まだ若い武士のように思われた。  前方に三人の忍者が立ちはだかっているのに気をかける様子もない。  雪明かりのなかに、おぼろに暈光《うんこう》をまとい、ただ静かに歩を進めてくるのである。 「贄《にえ》塔九郎」  だれかのつぶやく声が聞こえてきた。  ま、待て、とやまがそう叫んだときには、すでに遅かった。なかばは怒り、なかばは恐怖のために、かぜとひは雄哮《おたけび》をあげて、その武士に殺到していったのだ。  一閃、二閃、たしかにやまは刃が宙を舞うのを見たと思った。いや、見たと思ったのは錯覚であったかもしれず、ぴいーん、と澄んだ響きを発して、すでに刀は武士の腰に収まっていた。  かぜとひは血を撒き、襲いかかっていく姿勢そのまま、前のめりになり、雪のなかに沈んでいった。 「わああ」  やまは悲鳴をあげ、とびすさった。  恐ろしいものを見たと思った。その男の凄《すさま》じい刀術をまえにしては、なまなかな忍法など通用するはずがない。自信が揺らぎ、背筋が冷たくなり、やまは自分の巨体が急速に萎《しぼ》んでいくような喪失感をおぼえていた。 「去るがよい。追いはせぬ」  武士はなにごともなかったかのように、平然と編笠をとった。女と見まがわんばかりの、色白の、優しい顔が、雪明かりのなかにほのかに浮かびあがった。 「わたしの名は質佐馬助《むかわりさまのすけ》、贄《にえ》塔九郎という男ではない。人違いは、迷惑する」     二  崖の下に、小さな洞《ほら》がある。  入り口はなかば雪に埋もれたようになっているが、なかはやや傾斜していて、土が乾いている。  夜を徹して、山を歩いてきた質《むかわり》佐馬助は、この洞の中に入り、岩壁に背をもたせ掛け、長刀を抱くようにして、まどろんでいる。  いまの暦でいえば三月の末、夜明けの光が差し込むようになっても、洞のなかはかなり冷えこんでいる。  その寒さを苦にする様子もなく、伸びのびと体を憩《いこ》わせているのは、相当に鍛練を積んでいるからだろう。むだな筋肉がなく、やはり女のように優しい体つきに見えるが、そのしなやかな四肢には、なにか底知れず強靱なものを感じさせた。  佐馬助はわずかに身じろぎをし、眼をさました。そしてつと手をのばし、眼の前に咲いているすみれを摘みあげた。 「もう花が咲いている……」  そうつぶやいた佐馬助の眼は、童子のように澄んでいて、その底になにか哀しみに似た光をたたえていた。  洞に差し込んでいる朝陽が、フッと翳《かげ》るのが感じられた。  洞の入り口に逆光になり、あふれる朝陽のなかに女のほっそりとした影が浮かびあがっているのが見えた。  佐馬助はべつに動じたふうもなく、その影を見つめていたが、やがてフッと苦笑を浮かべると、 「わたしは諸国を流浪し、さまざまなはなしを耳にしてきた。あれは近江《おうみ》の国であったか、ひとの夢にとり憑くという夢ごぜ、旅の僧からこの世にはそうしたものがいるというはなしをきいたことがあったが……よもやわたしがその夢ごぜにとり憑かれることになろうとは、それこそ夢にも思わぬことであった」 「申し訳もござりませぬ」  と女はひっそりした声で応じて、 「さぞかしご不快に思われたでありましょうに」 「そうでもないさ」  佐馬助は微笑を浮かべて、 「はじめのうちこそは、これは狐狸《こり》にとり憑かれたかと、ほとほと困じはてもしたが、そのうちにそなたが毎夜、夢路に通《かよ》うてきてくれるのを、楽しみに待つようになった」 「なにを仰せられます」 「諸国流浪の境涯、ただひたすら兵法の工夫に月日《つきひ》を過ごしてきて、ついにこれまでこの身によろこびを覚えるということを知らずに参った。そのような男がたとえ夢のなかとはいえ、そなたのような女人と逢瀬をかさねることができたのは、身にすぎた幸せではあるまいか」 「…………」  女は沈黙している。 「名をあかしてはくれぬか」 「たいし一族の夢ごぜ、馬酔木《あしび》でござりまする」 「馬酔木か、なるほど、よい名だ。なにやら男をほろほろと夢ごこちにさせるような名でもある……たいし一族とはどのような一族であるのか」 「高貴なおかたのまつりごとに迷いがきざしたとき、禊《みそぎ》をなされて、殿内を祓《はら》いきよめ、神牀《かむとこ》に御寝《ぎよしん》あそばして、夢で吉凶を占うが習わしでございました。その夢|遣《つか》いにもっとも長《た》けていらっしゃったのが聖徳太子さま……わたくしどもはその聖徳太子さまを崇《あが》めたてまつり、夢違《ゆめちがえ》観音を奉じる一族でござりまする」 「なるほど、聖徳太子さまが建立《こんりゆう》なされた法隆寺には、夢殿という八角堂があると聞いたことがある……高貴なおかたというのは皇《みかど》のことであろうか」 「はい」 「わからぬな。わたしはこうして野山に伏すことはあっても、神牀などというものには寝たことがない。高貴なおかたどころか、兵法者、といえば聞こえはいいが、内実は乞食《こつじき》のようなものではないか。なにゆえにそのような賤しき者に夢ごぜどのがおとり憑きになったのか」 「あなた様は贄《にえ》塔九郎と仕合う運命《さだめ》を負われたかたでござりますれば」  馬酔木は数歩まえに出て、それまで背に負っていた朝日が、くっきりとその顔を照らしだした。  小麦色の肌に、大きく、切れ長な眼がなにか野生の生き物のような光を放っている。肩に波打つ豊かな黒髪に、一すじだけ赤い捲き毛が流れていて、燃えあがるようにあざやかに浮かびあがっていた。 「贄塔九郎か」  佐馬助は苦い笑いを浮かべると、 「たしかに鹿島神宮に参籠《さんろう》したおり、夢うつつに贄塔九郎という者を斃《たお》すべし、という託宣をさずかったような気がする。さすれば鹿島神宮の主祭神であらせられる武甕槌命《たけみかづちのみこと》の功力《くりき》を得て、わが刀術は神技に達するであろうと……だが馬酔木どの、あれもそなたの仕業《しわざ》ではないのか」 「いえ、質《むかわり》佐馬助さまの生まれながらの運命《さだめ》でござりまする」  馬酔木《あしび》の声がやや硬くなった。 「馬酔木どの」 「はい」 「わたしは生来の臆病者なのだ」 「…………」 「相手が挑《いど》んでくれば、ただ斬られたくないの一念で、体が自然《じねん》に動き、剣を抜きはらっている。臆病者ゆえの剣法さ。そのような男が武甕槌命の功力を得て、強くなったところで、ただ物笑いのたねになるだけではあるまいか」 「そのようなことはござりませぬ。忍者二人をあのようにあざやかにお斬り捨てになられたではありませぬか、佐馬助さまはお強うございます」 「わたしの母は武田信玄公のお世継ぎ、太郎義信さまの乳母をしていた。わたしは義信さまより年が下であるが、義信さまにふりかかるわざわいをかわす盾《たて》として、いわば神仏への人質として、義信さまとおなじ乳で育てられたのだ。わたしの質《むかわり》という姓は、そのためさ」 「武田義信さま……」 「そなたもうわさぐらいは聞いておろう。あろうことか信玄公を亡き者にせんと謀《はか》った、というお疑いをかけられ、おいたわしや、義信さまは囚《とら》われの身になられた。義信さまは親殺しの大罪を犯そうなどと、夢にもお考えになるようなかたではない。かならずや信玄公に毒念をふきこんで、義信さまをおとしいれた者がいるに相違ない。わたしは義信さまの質《むかわり》なのだ。信玄公を誅《ちゆう》し奉《たてまつ》ることはできぬまでも、その毒虫だけはなんとしても生かしてはおけぬ」 「…………」 「わかったであろう。わたしはそのために甲斐《かい》の国に戻《もど》ってきたのだ。贄《にえ》塔九郎などという者と仕合っている暇はない。とは申しても——」  佐馬助はまた苦笑を浮かべた。 「その贄《にえ》塔九郎もなにゆえか、この甲斐国に足をふみ入れているらしい。いずれは顔をあわせることもあろう。そなたのいうように、これはやはり運命《さだめ》というものかもしれぬ」 「義信さまをおとしいれた者がたれか、おわかりなのでございますか」 「まずは」  と佐馬助はうなずいて、 「さんき一族の山本勘助|道鬼《どうき》——」  ふしぎな光が満ちている。  青く、冷えびえとして、ときおり炎が走るように、宙に赤いしぶきが舞いあがる。およそ影というものがなく、光の粒子が霧のようにただよっているのだ。 「ううむ……」  その青い光のなかに、うめき声が聞こえてきた。  幻阿弥《げんあみ》である。  幻阿弥は地に胡坐《あぐら》をかき、薬草を舐《な》めて、十分に唾液を含ませてから、それを丹念に自分の傷口のうえに貼りかさねている。  野生の獣が自分の傷を舐めてなおすのに似ている。その生命力にも、野生の獣に匹敵するものがあるようだ。なみの人間なら動くこともできぬはずの傷なのに、もう幻阿弥の表情には生気の色が戻っているのだ。 「ふん、しくじったか」  その声にも悲壮感はなく、なにか滑稽な響きさえ帯びていた。  肩を袖に入れて、幻阿弥はゆっくりと立ちあがった。  そして、周囲を見まわす。  周囲といっても、人間ひとりがようやく通れるほどの幅しかない。両側から氷壁が迫っていて、これは谷というより、むしろ地のひびというべきであろう。幻阿弥はいわばそのひびにはまりこんだ一匹の虫だった。  仰ぎみれば、はるか上方に一筋、朝焼けの空が流れているが、幻阿弥の立つ地の底までは日の光も達してはいない。積もり積もった雪が凍りついて、鉋《かんな》で削ったような氷壁が、日の光をかろうじて拾いあげ、地の底をほのかなあかるみのなかに浮かびあがらせているのだ。  ——ようもここまで転げ落ちてきたものだわい……  幻阿弥は苦笑している。  その苦笑は、なかば自分自身の運命に向けられたものだったかもしれない。  聖徳太子の諜者|御色多由也《おいろたゆや》が一族の祖であることは、伊賀の曲舞《くせまい》衆のあいだでは代々語り継がれていることである。神変大菩薩の名を与えられていても、しょせんは験者《げんざ》あがりの役《えん》ノ小角《おづぬ》を祖とあおぐ他の伊賀者とは、血筋がちがう……幻阿弥は幼いころよりそう教えられてきた。  事実、曲舞衆は伊賀の郷士たちとの交わりをほとんど断っている。他国に赴き、忍びの術を商《あきな》うこともまったくしない。それでいてやはり血筋であるのか、曲舞衆の術が神技にまで達しているのは、伊賀のだれもが認めていることであった。  そのなかでも幻阿弥の技量はきわだっていたといっていい。  ——おれほどの者がこのまま伊賀の地でみすみす滅びてもよいものか……  若いころ、幻阿弥はしばしばそうした焦燥感に苦しめられた。  それというのも血筋を誇り、業《わざ》をみがきながら、曲舞衆はそれでなにをするというわけでもない、伊賀の地にただ隠棲しているのみだったからである。 「待つことだ」  一族の長老はいつもそう幻阿弥を喩《さと》してきた。しかし一体何を待てというのか? 幻阿弥のその疑問には、ついに長老は答えようとはしなかった。  明智十兵衛光秀。  美濃明智の住人と称するその牢人者が、曲舞衆の里に現われたのは、二年まえの冬のことであった。  明智十兵衛光秀が曲舞衆とどんな関係にあるのか、また十兵衛と長老たちがどんなはなしをしたのか、幻阿弥は知らない。  しかしそのときより幻阿弥は十兵衛|預《あずか》りの忍者となり、贄《にえ》塔九郎という若者の、いわば介添え役を申しつけられたのだった。  須佐之男命《すさのおのみこと》が討ちはたした八岐《やまた》の大蛇《おろち》の首が八つ、この日本国のあちこちに埋められている。そして腐乱死体が瘴気《しようき》をはなつように、その八つの首がそれぞれ精をむすんで、八体の物怪《もののけ》が誕生した。その物怪たちを退治《たいじ》る宿命を負わされているのが、すなわち贄《にえ》塔九郎であり、これをことごとく討ちはたしたあかつきには、闇の太守となる資格を得ることができる……  これが十兵衛にうちあけられたことのすべてだといっても過言ではない。  闇の太守は曲舞《くせまい》衆の主筋にあたり、そればかりか伊賀の忍者、修験者、歩きごぜにいたるまで、ことごとくこれを統《す》べる権力を持っているという。  ——恐るべし贄《にえ》塔九郎……  とは思うのだが、さて、闇の太守が具体的にどのようなものであるのか、ということになると、幻阿弥もいささか心もとなくなる。十兵衛からなにも聞かされてはいないのだ。  塔九郎という若者には好意を持っている。その強さには感嘆するし、生いたちの悲惨さにもかかわらず、純な心をうしなわないその気だてにも、妙に惹かれるものを覚える。なるほど、高貴な血筋とはこういったものなのか、とつくづく感じ入ったこともある。  しかしただそれだけのことで、傷を負い、氷壁の底に転げ落ちるまで、贄《にえ》塔九郎に仕えるのは、やはり利口な男のすることではない。  ——阿呆《あほう》なはなしよ……  そう自嘲したくもなるのだ。  だが幻阿弥はだからといって、贄《にえ》塔九郎から離れる気持ちは毛頭ない。自分の宿命《ほし》をさがし求めている塔九郎につきしたがっていれば、いずれは自分もまた宿命を見さだめることができるのではないか、とそんな気がしているからである。  幻阿弥はひびの底を歩いていきながら、夢ごぜの馬酔木《あしび》という女のことを想いだしていた。  あの女もしきりに塔九郎につきまとっていたようだが、やはり幻阿弥とおなじように、塔九郎の運命に自分の宿命《ほし》を透かし見ようとしていたのではないだろうか……  回想のなかの馬酔木の顔と、現実の女の顔とがふいに重なりあった。しかも現実の女の顔は逆さになり、無惨に血によごれていたのだ。 「おおッ」  幻阿弥はわれ知らず驚声をあげ、とっさに飛びすさっている。  めったにものに動じないこの男が、いまは肌が粟立つほどの恐怖を覚えている。  両手をのばし、身をくねらせて、さながら泳いでいるような姿で、裸の女が氷壁のなかに押しこめられているのだ。しかも一人や二人ではない。見あげれば、はるかうえのほうまで、様々に姿態を異にした女たちが、氷のなかに浮いているのである。  氷漬けの裸女!  女たちはいずれも若く、美しい。その髪は氷柱《つらら》のようなきらめきをはなち、乳房は純白に輝やいている。太股を走る静脈、その陰影までもが凍りつき、あらわに浮かびあがっているのだ。  恐ろしいが、ほとんどこの世のものとも思われぬほど美しい光景でもあった。  ——山本勘助道鬼の仕業《しわざ》に相違ない……  幻阿弥はそう確信している。これほど残虐な行為をしてのけるからには、道鬼が八岐《やまた》の大蛇《おろち》の眷属《けんぞく》であることはまちがいない、そうも思った。  そして今度の相手はこれまでとは比べものにならないほど手ごわいことを、はっきりと感じとっている。  幻阿弥の歯の根があわないのは、かならずしも寒さからばかりではないようだった。  頭上に、山桜が枝をめぐらせている。  山桜はまだ裸で、その枝をたわわにしなわせているのも、桜の花びらではなく、消え残った雪であった。  隧道《すいどう》のように頭上を覆っている樹々の枝に、月光がまばゆく銀色のしずくを降りそそいでいた。 「たしかに山本勘助はすぐる川中島の争いにおいて、討ち死にをしている。馬酔木《あしび》どのが不審に思われるのもむりはない」  数歩さきを歩いていく佐馬助が、はなしをしている。 「正気の沙汰ではないと思われたであろう。だが馬酔木どの、山本勘助はひとりではないのだ」 「ひとりではない?」  馬酔木は思わずそう訊きかえした。  枝のうえに雪は消え残っていても、もう地には春の草花が芽ぶきはじめている。サクサクと霜柱が砕ける履《は》き物の裏に、ふと地面の柔らかい感触が残った。 「左様、山本勘助はひとりではない……もともと甲斐の国は山にかこまれた、さんきの国であった。尾根筋から山腹、杣《そま》道を縫って走るさんきのひとたちは、武田の領内に足をふみ入れずとも、甲斐の国を自在にわたることができる。甲斐の国はじつは武田とさんきの二つの国から成り立っているのだ。さんきのひとたちの合力がなければ、甲斐の国を治めることなどできようはずもない。そのかわりこれを味方につければ、国境《くにざかい》の護りはまさしく金城鉄壁、信玄公がついに城をお築きにならなかったのもそのためさ」 「山本勘助はそのさんきの者だといわれるのですか」 「いわばさんきの一族から武田に遣《つか》わされた軍師のようなものだ。山をおのが掌《たなごころ》のように知りつくしているさんきの助けがなくば、いかに信玄公といえども、ああまで巧みに兵を動かすことはできまい。山本勘助はさんきから遣わされる軍師の総称であって、ひとりの名ではない。ひとりが死ねば、またつぎなる者が送りこまれてくる。武田晴信さまが出家し、徳栄軒信玄となられたとき、これにならい山本勘助も剃髪した、その名が——」 「山本勘助道鬼。あっ」 「すなわち山鬼、さんきだ」  佐馬助は馬酔木をふりかえり、あいかわらず静かな口調で、 「山本勘助はたんに武略にすぐれているばかりではなく、覡《げき》(男のシャーマン)の能のある者が選りすぐられる。その力をいっそうきわだたせるために、また山人が俗界にまじわる汚《けが》れを浄めるために、その片眼をつぶし、足の腱《けん》を切るのが掟となっているらしい」 「…………」  馬酔木はただ佐馬助のことばに、声もなくうなずくばかりである。  ふいに山桜の隧道がとぎれて、積もった雪に月光が映え、眼のまえが白い炎のように燃えあがった。  あっ、と小さく声をあげて、あまりのまばゆさに眼をとじてしまった馬酔木に、 「覚悟はよろしいか、馬酔木どの」  佐馬助が微笑を含んだ声でいった。 「これよりさんきの国に入る」     三  ——山に棲むひとあり、山騎《さんき》と称す、疾《はや》きこと、野の鹿もこれに及ばず、終日、山林を巡《めぐ》る…… 『大蓮寺記』にはこう記されている。  この記述にしたがうなら、山鬼ではなく、山騎と著《あらわ》すべきかもしれない。  月明かりのなか、その山騎たちが森のなかに次から次に集まってくる。  数にして百人は越えていよう。老若男女、いずれも樵人《きこり》か、猟師のようななりをしていた。  そこが山騎たちの�嶽《たけ》�、聖なる場所であった。  篝火《かがりび》が燃えさかり、山騎たちの姿をあかあかと浮かびあがらせている。  山騎たちは円陣をくむようにして集まっていて、そのなかに薪を積みあげ、草や藁《わら》が撒かれていた。  若い山騎が松明《たいまつ》を持ち、するすると歩み寄っていくと、その薪に炎を移した。  薪には油でも染みこませてあったのか、たちまち炎は燃えあがり、すぐに藁からも黒煙がわきおこるようになった。  長老らしい男が炎のまえに立ち、なにかを棒げ持つようにして、両手をあげた。  すると老人の袖からなにか黒いものが這いだしてきて、身をうねらせると、もう一方の手にもからみつき、かま首をもたげた。  山騎たちの声にならないどよめきのなか、蛇はちろちろと舌をだし、ゆっくりと体を前後に揺らしていた。 「生まれ出《いで》よ」  と老人は声をはりあげた。 「陽炎《かげろう》城——」  そして老人はそのまま蛇を炎のなかに投げ入れた。  一瞬、蛇が炎のなかにのたうちまわる姿が浮かびあがったが、それもすぐに見えなくなる。なま臭い風が山騎たちのあいだを吹き抜けていった。  山騎陽炎城。  山騎たちにとっては、甲斐をかこむ山岳がすなわち領地であり、城であった。八ケ岳を一の丸とし、秩父山塊を二の丸、三の丸、富士五湖地方を曲輪《くるわ》になぞらえる、これが山騎の陽炎城であったのだ。  陽炎城は、冬には雪に没する。そして春には若葉につつまれて、あおあおとよみがえる。これが陽炎城の名の由来であり、死と再生の永遠回帰は、山騎たちの信仰の根幹でもあった。  そのために脱け殻を残し、再生をくりかえす蛇が、貢ぎ物として炎に投じられる。  しかし貢ぎ物は蛇だけではない。  じゃらん、と五鈷鈴《ごこれい》を鳴らす音が聞こえてきて、山騎たちのあいだから若い女が歩み出てきた。若い女はするすると着ているものを脱ぐと、たちまちのうちに全裸になり、炎のまえに立った。  女はなにか憑かれたような表情になっている。乳房にぬれぬれと炎が映えて、その腰、秘所にめまぐるしく影が舞っていた。  また鈴を鳴らす音が聞こえてきた。  女は炎のうえに大きく跳躍し、月光に白い飛跡を描《えが》いた。  たかくあげた足、なまめかしい腰のくびれが、燃えたつように、炎のなかに浮かびあがった。乱れた髪に火の粉が散る。  女が炎をとびこえ、無事に闇のなかに降り立つと、また山騎たちのあいだをどよめきが走った。  ものみなすべてを焼きつくす炎は�死�の象徴であり、女陰《ほと》は�生�の象徴であった。これもまた�死�と�生�が重なりあい、永遠回帰を意味する、山騎たちの密儀であったのだ。 「よし、ようできた」  老人が叫んだ。 「いまひとりじゃ」  鈴が鳴った。  最初は低く、しだいにたかく、やがては焦燥感をあおりたてるように、激しく鳴りつづけた。しかし鈴音はむなしく鳴りつづけるばかりで、それに応じようとする女はいなかった。 「どうしたのじゃ、臆《おく》したか」  老人が耐えかねたようにそう叫ぶのに、 「臆しはせぬ」  しゃがれた女の声がかえってきた。  ざわめく山騎たちのあいだから、ひとりの老婆が進み出てきた。萎《しな》びたように、腰の曲がった老婆だが、眼には炯々《けいけい》と生気がみなぎり、その足どりにも危なげがなかった。 「一族のためとあらば、なんの臆することがあるものか。山騎の女ども、ことごとく贄《にえ》にもなれば、貢ぎ物にもなろうわい。だが男衆《おとこし》よ、女はくちなわではないぞよ」  と老婆は咆《ほ》えるようにいった。 「笑いもすれば、泣きもする生身《なまみ》のひとであるわい。あの道鬼めの生贄《いけにえ》にされて、ひととして生まれてきたかいがあるものか。火越えの儀式に加わった女、道鬼のもとに去って、戻《もど》ってきたためしがあろうか。聞けば、あの道鬼めは若い女の生き血を啜《すす》るという。あれはもはや山騎の者ではない。鬼畜ではないか。鬼畜にむざむざ女を奪われて、それでもうぬらは男であるといえるのか、女たちを鬼畜の生き餌《え》に供してまで、身の安泰をはかろうとするのが山騎なら、はっ、そのようなものはいっそ滅びてしもうたほうがましだわい」 「…………」  老婆の辛辣《しんらつ》きわまりない痛罵《つうば》に、男たちはかえす言葉もないようだ。たがいに蒼ざめた顔を見あわせて、ただしんと静まりかえっている。  薪の燃える音だけが、闇のなかにパチパチと盛大に聞こえていた。 「あれはもはや山騎の者とはいえぬ」  老人が苦しげに声をふりしぼった。 「道鬼であって、道鬼ではない。一匹の鬼畜であるわい。だがその鬼畜を討ちはたそうにも、あやつの幻術《めくらまし》はあまりにつよく、われらにはどうすることもできぬ。おして戦いを挑《いど》めば、山騎の一族、ことごとく屍《しかばね》を山野にさらすことになろうぞ」 「おう、本意ではないか。それでこそ音に聞こえた山騎の——」  老婆が激して、なおもわめこうとしたそのとき、あっ、という驚声が、山騎の男女のあいだから湧き起こった。  風を捲《ま》いて、彼らの頭上をなにかが翔《かけ》ていったのだ。  月光をあびて、月の精のようなきらめきを放ちながら、いとも軽々と炎を飛び越え、ふわりと薪の向こうに降り立ったのは、山騎たちの見知らぬ若い女であった。 「わたくしが貢ぎ物になりましょう」  女がかろやかにそういうのに、声をかさねるようにして、 「その鬼畜、討ちはたすのに合力させてはいただけぬか」  篝火《かがりび》の燃えさかるなか、編笠をかぶった武士が、ゆっくりと進み出てきた。  質《むかわり》佐馬助に馬酔木《あしび》、この二人をまえにして、山騎たちはただ呆然と立ちつくすのみであった。 「お目覚めあれ、お屋形《やかた》様」  と声が響いた。  そして闇のなかより、馬に乗ったやまが現われた。  馬は眼を覆い、枚《ばい》をかませて、草鞋《わらじ》をはかせている。蹄《ひづめ》の音がしない。ただ雲のうえを歩むように、ふわふわと人馬は進んでいくのである。 「お屋形様、いずこにおわすや」  またやまは声をはりあげた。 「おしらせしたき儀があり、参上つかまつりました」  ふいに闇のなかに篝火がともされ、あたりが明かるくなった。  洞窟である。  雨のようにしずくが絶えまなく降りそそいでいる。温水であるらしい。洞窟のなかには蒸気がたちこめていた。  洞窟は赤く、雲母《きらら》をちりばめて、うねうねと岩脈が這っている。  その岩脈のうえを、ひとと馬との影法師がときには濃く、ときには薄くなりながら、ゆるゆると進んでいくのだ。 「おいでなされませ、お屋形様」  やまの声が響きわたると、またあらたにひとつ篝火がともされた。  そして童子の像を浮かびあがらせる。  身の丈一メートルあまり、樟《くす》の木彫像で、不動明王の八大童子のひとり、制迦《せいたか》童子に似ている。ただしその手には金剛棒でも、五鈷《ごこ》でもなく、身をくねらせている蛇が持たれていた。  童子の像がたつあたりには、いっそう濃く蒸気がたちこめていた。轟っ、という水音が聞こえている。岩の裂けめのいたるところから温水が湧きでて、それがやがてひとつになり、泡立ち、渦を巻いて、童子像の背後の闇のよどみのなかに流れこんでいるのだ。  甲斐、およびその周辺には、後《のち》に信玄の隠し湯という名で知られる湯治《とうじ》場が、いくつも残っている。  そこで将兵たちが戦地での傷を癒《いや》したというのだが、現在、残っている温泉は、信玄の隠し湯という名を冠するには、あまりになんの変哲もない湯治場でありすぎるように思われる。  もしかしたら、この地下の温泉場こそがもともとの、�信玄の隠し湯�だったのかもしれない。 「お屋形様」  馬から降りて、やまがそう呼びかけると、 「どうしたのだ、そちほどの者がなにをそのようにうろたえているのだ」  童子像が低く、陰鬱な、それにもかかわらず水音を圧する声で、返事をかえしてきた。  いや、木彫像が口をきくはずもないが、たちこめる蒸気のなかに人影はなく、童子が返事をしたとしか見えなかった。 「畏《おそ》れながら、申しあげまする」  やまはその場に片膝をつき、 「昨夜、風、林、火三名の者、思わぬ不覚をとり、落命いたしました。わが手の者ながら、あまりといえばあまりの未熟、面目しだいもござりませぬ」 「ほう、贄《にえ》塔九郎、うわさにたがわぬ手だれであるようだのう」 「いや、それが——」 「相手は塔九郎ではないと申すか」 「はっ」 「塔九郎の手の者はたしか幻阿弥とか申したな。風林火山が総がかりで、よもや忍びひとりに遅れをとるとも思われぬが」 「相手は、質《むかわり》佐馬助という牢人者にござりまする」  やまは憤然とした口調でいった。 「質、佐馬助……」 「はっ」 「聞かぬ名だが」 「探索《さぐり》を入れましたところ、武田義信様にゆかりの者であるらしく」 「おう、義信の」  と武田の御曹子の名を呼び捨てにし、 「想いだしたぞ、義信の乳母に倅《せがれ》があり、その者の名がたしか佐馬助と申した。さてはこのたびの騒動、わしが仕業と見抜いての忠義だてか、ふふ、要らざることをするものだわい」  武田信玄の長子太郎義信は、その側近ともいうべき飯富兵部《おぶひようぶ》らとかたらい、謀反をはかったという咎《とが》で、囚われの身になっている。佐馬助が疑い、そしていままたこの声のいうことが本当だとすると、それはすべて山本勘助道鬼のめぐらした策謀だということになるのだが。 「やまよ」 「はっ」 「先代の道鬼がとり憑き、いままたわしがとり憑こうとしている武田信玄、ようやく上洛《じようらく》して天下に号令を発する意をかためた。甲斐の山国は文字どおりの峡《かい》であるわい。わしもいささか飽いた。上洛すればこそ、信玄もとり憑きがいがあろうというもの、それをあの義信の小倅めが、賢《さか》しらに異をとなえおって……わしは先代の道鬼とはちがう。このような山国にくすぶってなどいられるものか。天下を相手に、思う存分暴れてみたい。その妨《さまた》げになる者は、たとえ信玄の倅といえども、とりのぞかねばならぬ。そうであろうが、やまよ」 「はっ」 「とは申しても、質佐馬助にその理が通じるとも思われぬ」  と含み笑いが聞こえて、 「ここは不憫《ふびん》ではあるが」 「佐馬助には死んでもらわねばなりますまいなあ」 「できるか」 「正面をきって仕合えば、このほうには分がござらぬ。されど——」  やまは昂然と胸を張り、 「忍者には様々な通力がござる。なに、たかのしれた兵法者ひとり、いかようにも料理してごらんにいれましょう」 「おう、よい音《ね》じゃ。ところでやまよ」 「はっ」 「贄《にえ》が参ったぞ」 「な、なんと仰せられる」 「ふふ、うろたえおるわ」  しゃがれた笑い声が聞こえて、 「見よや、山騎よりの貢ぎ物が二人、わしの贄になろうと、しずしずと足を運んでくるではないか。見るからに美味な贄であるわい」 「御意《ぎよい》」  ふいに篝火《かがりび》が大きく揺らぎ、一瞬、疾風《はやて》のように影が洞内を駆けめぐった。そしてその影が消えたときには、たちこめる蒸気のなかにはもう人の姿はなかった。  白い被衣《かずき》をかぶった女が二人、篝火のあかりのなかに浮かびあがった。  蒸気に濡れそぼち、衣服を透かして、女のほっそりとした姿があらわになっている。かるくつまんだ裾も濡れ、衣擦《きぬず》れの湿った音が聞こえていた。  さきを歩いている女が、童子の像に歩み寄っていったとき、ふいに闇のなかから手が伸びてきて、その右腕を捩上《ねじあ》げた。 「あっ」  女は悲鳴をあげ、その手から短刀がこぼれ落ちた。  女はもがいたが、もとよりやまの怪力から逃がれられようはずがない。その背からさらさらと被衣が滑り落ちていった。 「おう、美しい」  と声が洞窟に響きわたり、 「そのように美しい女子が、なにゆえに殺気に満ちているのか、これはぜひとも聞かせてもらわねばなるまいなあ」  湯気をわり、ざあっと水音を響かせて、裸形《らぎよう》の男が温水のよどみのなかから姿を現わした。  なめらかな、桜色に染まった肌のうえを、温水が玉になってはじけ、流れ落ちていく。その骨格はまだ少年のものだ。いや、あたかも流れ落ちていく温水が羊水ででもあるかのように、そこに立つ男はいま生まれ出《いで》たばかりの瑞々《みずみず》しさと、美しさをそなえていた。  前髪のその顔も、まさしく美少年の形容にふさわしい。ただその美しい顔も、片眼が閉《と》ざされていて、なにかまがまがしい妖気のようなものが、ゆらゆらと揺曳《ようえい》しているのが感じられるのだった。 「その詮議《せんぎ》は詮議として、よくぞ参った。女——」  美少年はその赤く濡れた唇の両端をきゅっと吊りあげて、 「わしが山本勘助道鬼である」     四  道鬼は温水を滴らせながら上がってくると、濡れた体をろくに拭《ふ》きもせず、そのまま衣類をまとった。  純白の小袖に、萌黄《もえぎ》色の袴《はかま》、前髪立ちの道鬼がそんな装いをすると、いかにも可憐な児小姓《こごしよう》風であるが、それだけにその顔に刻まれている酷薄な微笑が、なおさら恐ろしいものに見えた。  道鬼が身支度をととのえるあいだ、女は——というよりも、もうこれは馬酔木《あしび》の名で呼んだほうがいいであろう——やまに片ひじを捩上《ねじあ》げられたまま、身動きひとつならない。  もうひとりの女のほうも、岩陰に身をすくめたまま、こそとも動こうとしない。あるいはあまりの恐ろしさに、念仏でもとなえているのかもしれない。 「陽炎《かげろう》城とはな、このわしのことよ」  道鬼は袴をつけおえると、ゆっくりと馬酔木のほうに歩みよってきた。わずかに右足を引きずるようにしている。 「春になれば、この若さ、この美しさを保って、よみがえるのだ。愚かな山騎どもは、甲斐の山を後生大事に頼って、これを陽炎城と見なしているが、山に貢ぎ物を差し出すなら、わしに貢ぎ物をしたほうが、よほど賢明というものではないか」 「道鬼様はな、いずれは信玄公を天下に押しだして、これを思うがままにあやつるご所存なのだ」  とやまは阿諛《あゆ》するように言葉を継ぎ、 「そのおりには山騎どもがどのような栄耀栄華にあずかれることか、それを考えてみたことがあるか。あるまい。おとなしく道鬼様の下知にしたがっておればよいものを、山猿どもめが、まことに救いがたき——」 「愚か者であることよのう」  道鬼は赤い唇をぬめりと割って、 「わしはなにも山騎どもにたいそうなものを求めているわけではない。若い女子を二人、その生き血を啜《すす》り、生気をむさぼりつくして、この温水に身をよこたえてこそ、わしの若さも保たれるのだ。安堵するがよい。そちたちの屍《しかばね》も粗略にはせぬぞ。氷に漬けて、生者さながらの美しい姿を保てるのだ。たかがそれぐらいのことも拒《こば》むとは、さりとは吝《しわ》いやつらよのう」  まさしく生き血を啜る吸血鬼——  川中島で討ち死にした山本勘助も、卜筮《ぼくぜい》をよくし、軍略にすぐれ、妖怪味をただよわせた人物であったが、この道鬼のほうはそれにも増して、いささかの人間味も残してはいない。八岐《やまた》の大蛇《おろち》の切りはなされた首が、毒気をはなち、この若者をまったくの食人鬼、骨の髄からの物怪《もののけ》にかえてしまったようであった。 「…………」  馬酔木はやや蒼ざめているが、恐れている様子はない。その澄んだ瞳で、ひたと道鬼を見すえているのだ。  その表情にいまさらながらのように、 「おう、そなたは美しい」  と道鬼は感嘆の声をあげて、 「わしに生き血を啜られるを身の冥加と思え。こうして眼を閉《と》ざし、足の腱《けん》を切ってはいても、わしは先代の勘助のように望みがちいさくはない。甲斐の国、山騎一族の安泰をもってよしとするほどの腑抜けではないわ。信玄はな、天下にうって出る。わしがそうさせずにはおかぬ。そちはな、その生き血をもって、わしの大望をになう礎《いしずえ》となるのだ。女子として、これにまさるよろこびはあるまい」  道鬼はつと手を伸ばし、馬酔木の頤《おとがい》に指をかけて、その顔を上げさせた。道鬼の表情に不審の色が浮かんだ。この期におよんでも馬酔木の眼に恐怖ではなく、蔑《さげす》みの色が濃いことに、ふと一抹の不安をおぼえたようであった。 「————」  凄じい気合がみなぎり、道鬼と馬酔木のあいだを割《さ》いた。  しえっ、と道鬼は声をあげ、二間あまりもとびすさっている。剣気に撃たれて、やまも無様に岩に転がったが、もつれるようになりながらも、馬酔木の手をはなそうとしなかったのはさすがだった。 「お、おのれは……」  道鬼がかっと眼をみひらき、あえぐような声をあげたのに応じて、 「なるほど、さきの山本勘助はおぬしのような野望は抱《いだ》いていなかったかもしれぬ。だがその軍略において、おぬしに数段まさっていたとは思わぬか」  いま流れるように身を寄せてきて、抜き撃ちに道鬼の小手を払おうとしたその男は、刀を腰におさめると、すばやく被衣《かずき》を脱ぎ捨てた。 「ああっ」  とやまがこの男らしくもない声をあげて、 「こ、こやつが質《むかわり》佐馬助でござる」 「いかにも質佐馬助、道鬼どのに見参《げんざん》つかまつる」  微笑を浮かべた佐馬助に、さしもの道鬼、やまの二人が色をうしない、声もでない有様だった。  不覚といえば、これほどの不覚もない。薄物をまとい、体の線をあらわにした二人、先頭に立つ者がまがうことなく女であったことに安心し、よもやもうひとりが男であろうなどとは疑いもしなかったのだ。人を喰った、大胆きわまりない、まさに捨て身の機略であった。 「なあ、道鬼どの、そうは思われぬか」  と佐馬助が微笑し、声をかけた。 「な、なんのことだ」 「さきの山本勘助のほうが、その軍略の才において、おぬしよりも数段まさっていたということを」 「ばかな」 「馬鹿と仰せあるか、これは心外な」  と佐馬助はあいかわらず微笑をたたえた声で、 「一隊が敵の本陣を襲い、出てくる敵をもう一隊が待ちうけ、退路を扼《やく》して、一挙にこれを討つ。これこそ川中島の戦いにおいて、さきの勘助が信玄公に献策した�啄木《きつつき》の戦法�ではないか。ひともあろうに山本勘助が�啄木の戦法�をしかけられるとは、とんだ軍師どのもあったものよ……外には山騎一族がいまや遅しと、おぬしが出てくるのを待っているぞ。それを知っていても、なあ、道鬼どの、幹を嘴《くちばし》で叩かれた穴の虫、外に出ずにはいられまい」 「�啄木の戦法�……笑止なり、質《むかわり》佐馬助、そのような小賢しい策でこのわしを討てるとでも思うているのか」 「人の生き血を啜る食人鬼——」  佐馬助は微笑を消して、すっと刀の柄がしらに手をやった。 「まずは地獄に墜ちて、武田義信様の無念を思い知るがよい」 「この女がどうなってもよいというのか」  やまが馬酔木の喉に手をまわし、背後から小刀をあてて、咆えるようにいった。巨体のやまがそうして馬酔木を捕えている図は、さながら大鷲が小鳥を爪で押さえているかのようであった。 「なにをいまさら白痴《こけ》な」  しかし馬酔木はその唇に冷笑さえ浮かべて、 「この洞《ほら》に忍んできたときより、もとより命は捨てている。風林火山の棟梁とも思われぬうろたえよう、忍者にもあるまじき醜態ぶりじゃ」 「よういうた、さすればまずはその口から切り裂いてくれよう」  やまがわめいたその瞬間、ばさっと肉を断つ音が聞こえて、赤い飛沫が蒸気に散った。  あっ、と声をあげたのは、佐馬助はこのとき馬酔木《あしび》が斬られたと思ったからにちがいない。いや、道鬼が狂ったような笑い声をあげたのも、まさに馬酔木が斬られるのを見たと思ったからであるはずだった。  だが苦悶のうめき声を発して、血を撒きながら、きりきりと舞っているのはやまのほうであったのだ。これほどの忍者がそのまま崩折れてしまったのも道理、やまは片腕をうしない、肩口からほとばしる血がばしゃばしゃと岩を叩いていた。 「けえっ」  なにが起こったのかわからぬまま、道鬼はたかく跳躍し、宙であざやかに一回転すると、たちこめる蒸気に身を沈めた。ゆらりと蒸気がたなびくと、もうそこには道鬼の姿は見えなくなっていた。 「一刻もはよう、ここを立ち去るがよい」  佐馬助もそう言い捨てると、すかさず道鬼のあとを追う。  あとには呆然と立ちつくす馬酔木だけが残された。  凝視する馬酔木の眼に、蒸気のなかに朦朧《もうろう》と浮かぶ人影が映った。それが迫出《せりだ》してくるようにしだいにひとのかたちをとり、やがて武士とも樵人《きこり》ともつかない男の姿があらわになってきた。 「おまえ様は……」  馬酔木は絶句している。 「よくよくの腐れ縁、またお会いしたな、夢ごぜどの」  幻阿弥はニヤリと笑い、 「命からがら、落ちた穴をたどって、出てきたのがこの洞窟《ほら》、その者の腕を斬ったのは、そなたを助けるためではなく、わしの恨みをはらすため、恩に着ずともよいわさ……おい、やまよ」 「おう」  ついさっきまで岩にうずくまり、苦悶のうめきをあげていたやまが、いまはもう苦痛の余韻もない、しんと凍りついたような声をかえす。これほどの傷を負いながら、さすがは風林火山の棟梁たる大忍者、いつのまにか袖口をかたく縛り、とりあえずは出血もとまっているようだった。 「生きているかや」 「因果に、まだ息をしておる」 「動けるか」 「なんのこれしき」  ゆらりとやまは立ちあがった。顔色こそ土気色を呈しているが、眼には気力が充溢し、その巨体はまさに山が起こったような威圧感をそなえていた。泰然と、うす笑いさえ浮かべているのだ。 「まだひと戦さも、ふた戦さも仕切れるわ」 「それは重畳《ちようじよう》。わしもおぬしのために傷を負うた。忍者に一騎打ちは世に聞かぬはなしではあるが、ここはどうあってもいま一度《ひとたび》、おぬしと仕合いたい」  幻阿弥は銀扇をぱらりとひろげると、岩からとびおり、蒸気のなかに身を沈めた。 「動かざること——」  やまはその顔に凄絶な笑いを刻むと、残った手で、刀を抜いた。 「山のごとし」 「その山を動かしてみようわい。いや、わしの扇でぜひとも舞わせてみたい」  幻阿弥はそういいながら、右に、左に銀扇を波打たせた。  扇が動くにつれ、蜘蛛が糸をひくように、蒸気は流れていって、やがてゆるやかに弧を描《えが》くようになった。きらっ、きらっと扇がまばゆい光を放つ。蒸気の流れはいよいよ速さを増していって、見るひとを引きこむ錯覚に誘《いざな》うような、漏斗《じようご》状の大渦巻きにまで成長していった。  その大渦巻きに隠されて、もはや幻阿弥の姿は見ることができない。  だがやまは片手で刀を支えたまま、ぴくりとも動こうとしない。傷の痛みも相当なものであるだろうに、まさしく山の重みをなして、不動の姿勢を保っているのだ。 「幻阿弥どの……」  そう口のなかでつぶやいたきり、馬酔木《あしび》もまた動くことができないでいる。  眼前にくりひろげられている忍者の死闘は、その緊迫感でぎりぎりと馬酔木の体を縛りつけていた。ろくに息をすることもできない。息のそよぎ、指のわずかな動きが、極限まで昇りつめたその緊張感を刺激するのではないかと案じられ、それが怖さに、ただその場に立ちすくんでいるのだ。  蒸気は流れ、時間もまた流れていく。 「ひとさし舞い候え」  ややあって蒸気のなかから、そう幻阿弥の声が聞こえてきたとき、やまは苦笑を禁じえなかったはずである。なにを性懲りもなく、とそう思ったかもしれない。いかに幻阿弥が湯気を風に流し、あるいは吹きよせようとも、それに惑わされて、山を崩すようなわしではないわ…… 「————」  ふいにやまは眼を瞬かせた。  蒸気はもう流れていない! 湧き起こるままにたちのぼっている蒸気が、激しく流れているように見えるのは、いつのまにかその動きに慣らされてしまった眼の錯覚であったのだ。幻阿弥の巧みな幻術《めくらまし》に、さしものやまが動いた。  動いているのは蒸気ではなく、じつは自分であったと知ったときのやまの驚愕は、まさしく天地が逆転したときの驚きにもまさるものがあったにちがいない。 「敗れたり、風林火山」  ヨロヨロと体を崩したやまに、蒸気のなかからぴゅっと刀が伸びた。かろうじてやまがそれをかわすや、すかさず刀を翻《かえ》して、今度はあやまたずその喉首を刎《は》ねあげた。 「ぎゃあっ」  とやまは叫んだ。  そして動かぬはずの山が動いたのを訝《いぶか》しむように、眼をうつろに見ひらき、そのままどうと温水に転げ落ちていった。  外でも悲鳴が聞こえていた。  それもたてつづけに二度、悲鳴があがり、断末魔のうめき声がそれにつづいた。  霜枯れた草原、消え残った雪にいまにも朽ち折れそうな草やぶが波打つ灰いろの風景に、ぱっとそこだけあざやかに血の花が咲いた。 「鬼畜」  またひとり山騎が山刀をふりかざし、草陰からとびだしたが、わあっ、と悲鳴をあげ、雷にでも打たれたようにはねかえされた。仰向けに、草やぶに沈んだその顔が、血を噴き、両断されていた。  萌黄《もえぎ》色の袴をあざやかにひるがえし、ざあっ、と草を鳴らしながら、血刀をさげて、道鬼が走り抜けていく。 「天罰|覿面《てきめん》、山猿どもが、われにさからう愚を思いしるがよい」  狂ったような笑い声を残し、道鬼の姿は草原にのまれでもしたかのように、フッと消え失せていた。  あとには草原に点々と散る、十人あまりの山騎の死骸だけが残された。  血糊もすぐに乾き、凍りついて、わびしい霜枯れの草原に同化して、そのままひっそりと朽ちていくかに見えた。  東の雲に一点、血のような朱が滲んでいたが、いっこうに陽は昇ろうとせず、風景は薄闇に閉《と》ざされている。ここでは時までもが凍付《いてつ》いてしまったかのようであった。 「道鬼はわたしが討つ。おぬしたちは彼奴を逃がさぬように、見張っていてくれさえすればよい」  道鬼に仲間を殺され、浮き足立っている山騎たちにそういい残すと、佐馬助はただひとり、草原に分け入っていった。  佐馬助の足の運びは流れるように滑らかだった。肩にも力が入っていず、両手はだらりと脇に垂らしている。その顔にはなにか放心したような微笑さえ浮かんでいた。  佐馬助は抜き撃ちを得意とする。相手の剣気が襲いかかってくるまでは、木の葉が舞うように、自分の体を風に遊ばせておくほかはない。  ——わたしは生来の臆病者なのだ……  ふと馬酔木にいった自分の言葉が想いだされた。  その臆病者が兵法の修行をし、いま山本勘助道鬼をひとりで討とうとしている。そのことにフッと苦笑が湧いてくる。仇《あだ》を討たねばならぬほど、自分は武田義信様をお慕いしていたのであろうか。あらためてそう考えると、自分で自分の気持ちがわからなくなってくるのだ。  おそらくは質佐馬助《むかわりさまのすけ》という名のしからしめるところではないか、と思う。幻いころより義信様の質《むかわり》となるべく育てられてきて、ついにその教えから逃がれられないでいる。これがわたしの宿命《ほし》なのだ。  ——贄《にえ》塔九郎という男もやはりそうなのではないか……  佐馬助はなんの脈絡もなく、そんなことを思った。そしてまだ見ぬ塔九郎という男に、なにか親しみに似た感情が湧いてくるのを覚えた。  ふいに剣気が風を捲いて、襲いかかってくるのを感じた。佐馬助はとびすさり、剣を抜きはらったが、鉄槌で打たれたように、その体はよろめいている。  轟っ、と音をたてて、眼のまえに火柱が燃えあがった。  炎はみるみる枯れ野に燃えあがり、黒煙を噴きあげて、瀑布のように火の粉をなだれ落とした。突風がまきおこり、その風に煽《あお》られたように、炎は枯れ野を疾《はし》って、やがては佐馬助を巻き込んで、大きな渦を描くようになった。 「おおっ」  と佐馬助が声をあげたのは、かならずしも炎に包まれて、うろたえたからばかりではない。  炎は放射型に燃えさかり、いかなる妖術にあやつられたものか、それがくるくると水車のように回転しているのだ。  炎は意志あるもののように寄せてきては、すぐに退《しりぞ》く。しかもその炎には道鬼の剣気とも、毒念ともつかないものが籠《こも》っていて、あたかも道鬼が何十人、何百人にも分身して、佐馬助に襲いかかってくるかのようであった。  これではいかに佐馬助が抜き撃ちの業に優れていようと、どうにも抗するすべがない。佐馬助はただひたすら後退するのみである。 「わしが軍略において、さきの山本勘助に劣ると申したな」  どこからともなく道鬼のあざ笑うような声が聞こえてきて、 「ようもほざいてくれた。その痴《し》れた口をいまこそ悔《く》やむがよい。これはすぐる川中島の戦いにおいて、上杉方が遣《つか》った車懸《くるまがか》りの戦法と思え。武田の軍師山本勘助が上杉の戦法を遣《つか》うもまた一興、炎に巻かれながら、さて、いずれの山本勘助がまさっていたか、あらためて考えてみるがよい」 「…………」  佐馬助は脂汗を滲ませていた。  車懸りの戦法は次から次に新手をくりだしてきて、しかも疲れることを知らない。炎はまさに道鬼の下知にしたがう将兵のように、寄せてはかえし、やつぎばやに佐馬助に襲いかかってくるのだ。このままではついに力つきて、斃《たお》れることになろう。  刀をふるう佐馬助の手の甲に火ぶくれが浮きあがっている。のしかかってくるような熱気と殺気のために、すでに全身が痺《しび》れはじめていた。  ——これまでか……  佐馬助は覚悟を決めた。  そのときふいに炎にゆらめきが生じ、枯れ野をめぐるその勢いが衰えた。車懸りがその回転を乱して、兵が隊伍を崩していくように、みるみる炎に空隙《くうげき》がめだちはじめた。  おりから吹きこんできた一陣の涼やかな風に、まさに佐馬助は蘇生した思いでいる。  衰えた炎のなかに、ひとりの男の姿が浮かびあがった。  男は剣で草を切り裂き、薙《な》ぎはらい、悠々と足を運んでくるのだ。 「面白し」  男の笑い声が聞こえてきた。 「これでは十拳剣《とつかのつるぎ》が草薙《くさなぎ》の剣になったようではないか」  男が進むにつれて、炎はひれ伏すように後退していく。  あの男がやってきたのだ、と佐馬助は思った。  ついに贄《にえ》塔九郎が姿を現わした。     五  葦《あし》でも刈りとるように、ざくっ、ざくっと炎が削《そ》がれていく。あとには黒くくすぶる煙りだけが残り、それすらも風にちぎれて、急速に薄らいでいった。  炎はまだ舌なめずりを残していたが、薄明のなかにただもやのような煙りをたなびかせているだけで、もう目路《めじ》をさえぎるほど、勢いさかんではなかった。  そのなかに、道鬼がいた。  妖術を打ちやぶられた道鬼は、さながら羽を毟《むし》られた鶏のようで、なすすべもなく、ただ呆然と立ちつくしているのだった。 「八岐《やまた》の大蛇《おろち》のご眷属《けんぞく》、山本勘助道鬼どのとお見うけする」  と贄《にえ》塔九郎は声をはりあげて、 「それがしは贄《にえ》塔九郎、あらためて口上を述べるまでもなく、用むきのすじはおわかりのことと思うが」 「————」  薄あかりのなか、遠眼にも、前髪立ちの秀麗な道鬼の顔が、怒りのために赤黒く充血するのがわかった。 「おう、贄《にえ》塔九郎、待つこと久し」  道鬼は鳥が翼をひろげるように、スラリと大小を抜きはらうと、まだ余燼《よじん》くすぶる枯れ野を、走りはじめた。  塔九郎も、そして佐馬助も走った。  しめしあわせたわけでもないのに、二人はほぼ並ぶようにして、左右にわかれ、枯れ野を疾走している。  これもまた武田勢が川中島において敷いた鶴翼《かくよく》の陣そのものであった。車懸りに対するに、鶴翼の陣、すなわち横隊をもって、これに立ち向かう、川中島ではあきらかに鶴翼の陣が劣勢であったのだが…… 「ぎゃあっ」  かけちがいざま、塔九郎は道鬼の残った眼を、佐馬助は残った足を、それぞれ切り裂いていた。  道鬼の体は血しぶきとともに宙に舞い、もんどりうって、地に転げ落ちている。そのまま蓑虫のようにうずくまり、おお、わしの血が、わしの命が流されていく、と悲痛な声で叫んだ。 「とどめを」  どちらからともなくそう呼びかけ、まずは塔九郎が道鬼のうえに立ちはだかって、刀を上段にふりかざした。 「ま、待て」  道鬼がしゃがれた声をあげて、 「塔九郎、わしを斬らば、おのれが悔やむことになろうぞ」 「なにを痴《し》れたことを。物怪《もののけ》の命惜しみは見苦しかろう」 「痴れたことと申すか。それこそおのれの宿星《ほし》に唾する言であろう」 「えい、聞く耳持たぬ」  一気に斬りおろそうとする塔九郎を、 「おのれも八岐《やまた》の大蛇《おろち》の眷属《けんぞく》ではないか」  道鬼のその一言が制した。 「…………」  塔九郎は刀をふりかざしたまま、凍りついたようになり、ただ道鬼の顔をまじまじと見つめている。 「須佐之男命《すさのおのみこと》はじつは八岐の大蛇であったというぞ」  道鬼は両眼を閉《と》ざされても、なお美しさを残すその顔に、邪悪な笑いを浮かべて、 「われらを斃《たお》して歩くは、八岐の大蛇の首を供養して歩くもおなじではないか。闇の太守とはどのようなものであるか考えたことがあるか。あるまい。いずれはおのれもわれらとおなじ八岐の大蛇の眷属となるのが定めなのだ」 「…………」 「いわばわれらは同血の士、おのれの同胞《はらから》を殺《あや》めたのでは、あまりに罪がふかすぎるというものではないか」  道鬼は媚態《びたい》すら見せて、塔九郎の足に身をすりよせんばかりにしている。切り裂かれた眼から滴り落ちる血を、舌なめずりするようにして舐《な》めているのが、おぞましくもあり、なまめかしくもあった。  塔九郎の眼には、なにか暗い翳《かげ》がさしていた。道鬼の顔を見ているようでいながら、じつはべつのもの、なにか遠いものに視線を這《は》わせているような眼をしている。 「おのれの宿星《ほし》をよく見さだめてみよ。心すまして、おのれが血の疼《うずき》を聞いてみよ。わしの体をめぐる血と、おのれの血とはおなじものであるぞよ。いわばわれらは兄弟もおなじではないか」  道鬼はしなだれかかるように、塔九郎の足に手を這わせた。その笑いがますます妖艶なものになる。そしてやにわに塔九郎の小刀を引き抜くと、跳ね起きざまに、斬りかかろうとした。 「鬼畜っ」  佐馬助の喉から声がほとぼしっていた。その体は地を擦るように低く、二人の横を走り抜けていき、下段から抜き撃ちに、道鬼の胴を薙《な》いでいる。  道鬼は絶叫をはなちながらも、刀をふりおろしたが、わずかに切先が塔九郎の身におよばなかった。  地に転がったときには、道鬼はもう完全に事切れていた。  しかし塔九郎は自分が危うく斬られそうになったことにも、ほとんど関心を示そうとはしなかった。やはり遠いものにひたと視線を据《す》えたまま、放心したように立ちつくしているのである。 「贄《にえ》塔九郎どの」  刀を腰におさめて、佐馬助が声をかけた。  塔九郎はようやく佐馬助の存在に気がついたとでもいうように、顔を向けた。その眼にはまったく感情のゆらめきがなく、深い湖のようにただしんと沈んでいる。 「どなたかは存ぜぬが——」  と塔九郎は低い声でいった。 「ご助勢かたじけない」 「いや、この者はわたしの主の仇《あだ》でもある。礼は無用のことにされたい。それに……」 「それに?」  いいよどんだのを訝《いぶか》しむように、塔九郎は佐馬助を見つめた。 「わたくしと贄《にえ》塔九郎どのとはまったくの無縁というわけではない。とんだ逆縁ではあるのだが」 「…………」 「わたしは質《むかわり》佐馬助、諸国流浪の兵法者でござる。先年、鹿島神宮に参籠《さんろう》したおり、贄《にえ》塔九郎を斃《たお》すべし、という託宣をさずかり申した」  佐馬助はそこでいったん言葉を切り、あとはゆっくりと絞りだすようにいった。 「贄《にえ》塔九郎どの、どうやらわれらは仕合わねばならぬ運命《さだめ》にあるようだ」  塔九郎はしばらく沈黙していたが、やがて自分自身につぶやくようにいった。それはひどく疲れた、苦渋と、哀しみに満ちた声であった。 「運命とあらば、やむをえぬ……」  枯野に、ようやく遅い朝が訪れようとしている。  余燼《よじん》くすぶる枯れ野に朝日が差し、たなびく煙は、うっすらと茜《あかね》色に染まっていた。  その枯れ野に長く影を曳《ひ》き、数間をへだてて、塔九郎と佐馬助は対峙《たいじ》している。  塔九郎は青眼にかまえて、佐馬助は低く腰を落とし、刀の柄《つか》がしらに手を添えて、もう四半刻あまりも、そのままの姿で向きあっているのである。  それを遠くから、馬酔木《あしび》と幻阿弥《げんあみ》が見つめていた。  ——わたしはどちらに勝ってほしいと念じているのだろうか……  馬酔木はそう自問している。  これまでも幾度《いくたび》か兵法者を、贄《にえ》塔九郎のもとに導いてきた。なにゆえかは馬酔木自身にもわからない。おそらくは鹿島神宮の社家になにか関《かかわ》りがあるのだろうとだけ思い、夢ごぜの長《おさ》の命じるままに、いわば兵法者たちの介添え役をつとめてきたのだ。  修行を積み、印可を得た男たちを、夢のままにあやつることに隠微な楽しみがなかったとはいえない。女としての男との交わりを禁じられている夢ごぜの、あるいはこれはひそかな快楽《けらく》であったかもしれない。  しかし塔九郎の境涯を知るにつれて、しだいに自分のなかで同情が育ちつつあるのを、馬酔木は自覚していた。いや、もしかしたらそれは同情以外のなにかであるかもしれない、とさえ思っている。そして二匹の犬を咬みあわせるような自分の所業が、いかにもあさましいものに感じられてきたのである。  ——なにゆえにこのようなことをせねばならぬのか……  深く抉《えぐ》れた傷のように、その疑問が痛く、生々しく胸に迫ってくるのだ。  それでもこれまではただ塔九郎が勝つことだけを念じればよかった。敗れた兵法者を不憫には思っても、兵法の奥義をきわめたい、という男たちの凄《すさま》じい業《ごう》のしからしめるところ、と自分を納得させることもできた。  だが此度《こたび》は、自分は臆病者なのだといった佐馬助の言葉が、執拗に耳にこびりつき、離れようとはしないのだ。  優しいおひとなのだ、と思う。その優しいおひとを塔九郎に立ち向かわせるようにしむけた自分の所業に、今度こそ馬酔木は血を噴くような苦悶をおぼえているのである。  ——わたしはどちらに勝ってほしいと念じているのだろうか……  その自問が、鉄の箍《たが》のように馬酔木の胸を締めつけるのだ。  この絶え間ない戦いの果てには、なにが待ちうけているのだろうか。塔九郎さまは、この幻阿弥という忍者は、そしてわたしはこれからさきどこへ行き着くのだろうか…… 「おうっ」  と幻阿弥が声をあげ、馬酔木の想念をつきやぶった。  塔九郎が下段にかまえると、やにわに走りだすのが見えた。佐馬助もつと足をまえに運び、腰より光芒を放った。血しぶきがほとばしり、一瞬、幻阿弥も馬酔木も塔九郎が斬られたと思ったはずである。いや、たしかに塔九郎は斬られた。ふりかざした左腕を盾にし、その鍛えぬかれた筋肉に刀身をくいこませて、すれちがいざま佐馬助の頸動脈を刎《は》ねていたのだ。 「————」  馬酔木は思わず眼を閉じた。閉じた瞼の裏に涙がふくれあがってくるのを感じていた。  眼をひらいたとき、すでに佐馬助は地に伏し、塔九郎はよろめきながら、枯れ野を歩み去りつつあった。 「さあ、わしらもそろそろ参るといたそうか」  幻阿弥は馬酔木に顔を向けてなにか疲れたような声でいった。 「もしかしたら、これからわしらの旅がはじまるのかもしれぬ。そのような気がしてならぬわい」 「…………」  馬酔木はただ枯れ野を凝視している。もう塔九郎の姿は見えなくなっていた。 (「出雲尼子一族」米原正義著・新人物往来社刊を参考にさせていただきました。お礼申し上げます) この作品は「小説現代」(昭和58年5月号、8月号、11月号)に掲載されたものに第四話を新たに書き加え、一九八四年講談社ノベルスとして、一九八七年講談社文庫として刊行されました。 二〇〇二年四月一二日発行(デコ)